こくぶんじブログ 〜内田博司〜 本文へジャンプ
年の終わりに

  八十九歳で亡くなった母は新潟県の山奥に貧窮の中で生まれ、小学校も出ていないが死ぬまで妹の使い古しの国語辞典を離さなかった。筆まめでよく手紙を貰ったがしかし意味の通じないことが多かった。その母が明治、大正、昭和、平成と生き抜くには人に言えない労苦の日々があったことと察せられる。そのことで泣き言を聞いたことはなかったが母の悲しみは深かったであろう。その分頑固で優しさに欠ける面があった。そのことで家内は人に言えない苦労を背負った。背負った苦労も又悲しみは深かった。知っているのは私一人だが人生はそうやって常に不条理だ。有吉佐和子は「華岡青州」でその嫁姑の愛憎を綴ったが、人であるが故の解決には時間と、そして叡智が必要だ。その母が植えた野菊が今年も寒空に美しい花を咲かせた。道端に咲いてこそ相応しい花だが私には何故か心なごませる思いを運んでくれる。
 菊と言えば皇室の紋所は菊だが今年一番の心優しい情景を皇室がもたらしてくれた。清子様の婚儀であった。その日、皇室を離れる清子様を美智子様はしっかりと抱き締められて「大丈夫よ」と何度も励まされたとの事。新しく始まる生活に不安と心細さを抱えている娘に、母として当たり前の心使いだと思うだろうか。私はそうは思わない。学習院の幼稚園に入学する前に、ご自身の意志で街中の幼稚園へ通わせたのも、勤人の家庭に入るのに母の晴れ着を婚礼の着物に仕立て直したり、お色直しもしないことに決めた清子様の決心は正に美智子様との母子の交情の中から育まれたものと思われる。美智子様はご自身の考えをさりげない形で、しかも強い志で国民と皇室の隔たりを縮めることに心を砕き、更に母として世界中の鑑となるような優しさを示して、皇室とは縁もない私にも強い親近感をもたらしたものはただただ美智子様の女性としての美しさであることに気付くのだ。徒に華美を求め、目を欺く様な結婚式や、功名ばかりを求める社会の風潮にあって、美智子様の果たす一挙動はなんと清々しいことであろうか。四分に一組の夫婦が離婚する社会に生きる我々が今一番心を尽くして考えなければならないことは、やたら声高に自己弁護が横行する世の中にあって静に人間同士の信頼を語る声に耳を傾けることではないだろうか。これは自戒を込めた年の終わりのささやかな祈りである。
2005.12.15



はばたけ、少年達

 もう秋か、それにしても何故永遠の太陽を惜しむのか
小林秀雄の訳したランボーに若い時は夢中になって憧れたものだ。何故って、これ程魂の高潔さと誇りを詠い続けた詩人はいないからだ。アフリカの砂漠で片脚を失ってもそれでも颯爽と風を切って生き続けたからだ。その秋もアッという間に去って東京に木枯らし第一号が吹いた。庭には山茶花が散り千両が朱い実をつけた。そんな或る日恋ヶ窪公民館を訪ねた。芳賀岳淳さんに招かれたからだ。川中島の戦いを詠んだ頼山陽の詩には旧い時代の日本人の美意識が今でも生き続いている。その伝統を子供達に伝えたいと芳賀さんが悲願として続けている詩吟教室に私も、御一緒させていただいた。小学生から中学生まで皆な声を張り上げて「鞭声粛々、夜河を過る」と唄っている。顔中、口にして唱っているというより叫んでいる。窓の外には木枯らしが桐の葉を一枚、一枚と吹き落とし杏の枝が風に揺さぶられて震えている。窓硝子が鳴って私は思わず胸に熱いものが込み上げてきた。瞬間、遠い日に訪ねた山口県の松下村塾を思い出した。今でもその粗末な小屋は萩の松陰神社に残されているが、そこから明治維新を成し遂げた下級武士の俊秀が四書五経を声を張り上げている姿に重なったからだ。その松陰が何の弁明もせずに遂に処刑される為に萩から江戸へ送られる日に詠んだ歌がある。
 帰えらじと思いさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな
吉田松陰が処刑された日から九年も経たずに、二百五十三年も続いた徳川幕府は倒れ明治になった。近代日本の幕開けである。少年達は石田美風先生のたか空に鳥が舞う程の高い声に続いて、雨宿りをしている太田道灌に山吹の花を差し出す少女の歌を唱った。
 少年達に幸あれ。
2005.12.10



文化の香り高く

  京都御所を下って蛸薬師通をはさんだ一角は今でもお寺が櫛比して、昔ながらの風情を保っている。その小さな古刹の本堂で私は初めて能役者の稽古を見た。今井清隆である。もう十年以上も昔のことだ。習い事をしている友人に無理をいって頼み、付いていったのである。後年、千駄ヶ谷の国立能楽堂で、その人の「隅田川」を見た。子供を人買いに攫われて悲しみの余り狂女となって我が子を探し求める母が隅田川にやってくる。その渡し守の船頭から対岸で長旅の疲れから死んでしまった子供の話を聞く。もしや我が子では、と念仏を唱えると我が子の声が聞こえ、目の前に亡霊が現れる。思わず近寄ると亡霊は消えてしまう。甲高い幼子の梅若の声が今でも私の耳に残っている。
 国分寺市の文化振興会議で同席する市内謡曲宝生流副会長の堀内征一さんに前から頼んでおいた案内状がやっと届いた。十一月二十三日は錦秋を思わせる秋晴れであった。いずみホールは満員とはいかなかったが熱心な観客が詰めかけていた。朝十時から始まった演能は昼食休憩もなく延々と続けられた。一年の溜まりに溜まった稽古の成果をこれでもか、とぶつけてくる熱演にはたじろぐ他はないが不快ではなかった。むしろ人は好きなことなら苦労も厭わず喜々としてやるのだ、という確認であった。これこそ平和というものの尊さであろう。私の目当てとする人は六時間も待ってようやく登場した。今迄の袴は脱ぎ捨て、新しく着替えて折り目正しく一際紋付きが映えた。舞台一杯に舞う仕種の合間に袴からチラリと覗く緑地に金泥の帯が、男の色気を鮮やかに引き立てた。日頃の堀内さんとは思えない変わり身であった。演目も「歌占」という心憎い程、人生の無常を切々と訴える「地獄の曲舞」を主目とする難解な舞いで、流派のトリとして見事にその役を演じ切った。それは今井清隆には及ばないが文化の香りが秘かに匂いたった。世阿弥の「能に花をしること、無上第一なり」と、この道は果てしなく続く雅びやかな感能の一日であった。
2005.11.30



不死鳥となって甦れ

 十一月二日のテレビで衝撃的なニュースが流れた。前人未踏の国内トーナメント百十二勝をあげ生涯獲得賞金二十六億七千万円の尾崎将司が、東京地裁に民事再生手続きを申し立てていることがわかった。高校野球で甲子園に出場し、華々しくプロ野球に入ったが成績を残せず、その後プロゴルフに転進して日本のゴルフ界をスポーツのメジャーに押し上げた功績にかならず尾崎の名は消えることはないであろう。ゴルフフアンにとって忘れることの出来ないシーンがある。国内最高の賞金で人気のあった太平洋クラブマスターズは毎回外国人に優勝をさらわれ、日本人にとって毎年口惜しい思いをしてきたが昭和四十八年十月いよいよ日本人が外国人をへこませる機会が巡ってきた。場所は千葉県習志野カントリークラブ。最終日の十八番ホールに尾崎が立った時、首位のバートヤンシーとは一打差であった。グリーンにのった尾崎の球はカップから十米程離れていた。これを入れればプレーオフである。慎重に芝を読んだ尾崎は何度もウオームアップしてからパターを振った。球はするすると滑ってカップに吸い込まれた。観客が総立ちとなった。サドンデスは尾崎が勝った。日本人が外国人に勝った瞬間である。後年、その十八番ホールでプレーした時はそのシーンを思い出して私でも血が騒いだ。中村寅吉が初めて外国人に勝った時ゴルフはまだ金持ちのスポーツであった。ヒーローにはかならず大衆の支持が欠かせない。この時からゴルフは大衆のスポーツとなりプロの演ずる熱い戦いはテレビで毎週放映されるようになった。名を挙げると実利を求めてかならず人は寄ってくる。この時尾崎は得意の絶頂であり、本業以外に誘われて遂に自分を見失う結果になったのであろう。このままでは死んでも死にきれない。スポーツに限らず各界の頂点において戦う者は、常に苛酷な錬磨に耐えなくてはその地位を維持することは出来ない。五十八歳の尾崎にとってその壁はもはや超えられないであろう。一勝を挙げることも不可能だ。だが、返すものは返してぶつかってほしい。身体を絞って不可能に向かって、もう一度挑戦してほしい。老齢とは、常に言い訳を造って何もしない人のことだ。尾崎はそんな男ではない筈だ。不死鳥となって甦れ。
2005.11.04



生きていればこそ

 我が家に今年も曼珠沙華は咲かなかった。花水木は既に紅葉し、朱い実が夕陽に照らされている。金木犀もかぐわしい香りを楽しませてくれたが、時は足早に去り今はほととぎすが満開だ。満開といっても葉の茂りの先に少しばかり紫の花を散らす程に、いずれも秋に咲く花は控え目で淋しげだ。十一月が来るこの頃になると道半ばにして逝った友を思い出す。彼女は自分の夢を目を輝かせて私に語った。生きることは志を遂げることだ、と信じて疑わなかった。障害が発生しても、決して嘆かない。「それが人生でしょ」といつもそう言って一つずつ問題を解決していった。成功の見通しがどんなに遠いことと思えても彼女を見ていると、それがいつか実現するかも知れないと思わせた。それ程ひたむきだった。何度も人生の悲哀に身をなぶられている私には、彼女は眩しい天上の灯りであった。
 丁度、イザベラ・チャルトリスカが古都クラクフで蒐集したダビンチの貴婦人のように。それでも私が常に案ずるように人生は、いつも非情で不条理だった。我が家に突然曼珠沙華が咲いた昔、ああ彼女はきっとまだ何処かで生きているに違いないと思わせた。だが十一月は再びやってくる。今は亡き友にひとつの歌を送ろう。

    数ならぬ身とな思いそ魂祭

 松尾芭蕉が旅先で親しい女性の訃報に接して詠んだ一句です。いま、貴方の訃報に接しました。けれど取るべき何の誇りもなく朽ち果てたとは決して思わないで下さい。どんなに遠い所にいても私は、いつも貴女の身を案じ大切に思っていたことを、どうぞいつまでも忘れないで下さい。
2005.10.22



鼠小僧次郎吉とエルビスプレスリー

所用があって十数年振りに隅田川を渡った。総武線の鉄橋から見える川面は、午後の陽差しにキラキラ輝いていた。懐かしさがこみ上げてきた。駅を降りると両国界隈は激しい様変わりであった。操車場は国技館に変わり、その裏の野菜市場は江戸東京博物館になった。昔、この辺りはいつも力士のビン付け油の匂いがして、しもた屋の並ぶ町筋は江戸時代そのものの風情があった。回向院に廻ったら院内はすっかり装いを一変していた。力士塚は昔のままだった。奥へ進むと鼠小僧の墓があった。立派な墓の前に、もう一つ半分以上削り取られた無残な墓があって親切に立て札が立っている。どうぞ削り取って下さい、と削り用の石まで用意してあるが最近は受験生がよく取りに来るようだ。昔は人目を忍んで泥棒様に助けを求めたが、このように堂々と損壊を勧められては鼠小僧も墓の下で恐縮していることだろう。庶民はいつの時代も苦しい暮らしの埋め合わせをこうした豪儀な生き様をした人間に、たとえ泥棒であっても信仰の対象にしたのであろう。次郎吉の生きた天保という時代もすさまじい飢饉に見舞われ、農民は先を争って江戸、大坂へ稼ぎを求めて流れ込んだ。しかし暮らしは楽にならない。そんな折に十両で首が飛ぶ時代に富裕な商家ばかり狙ってはその金を貧しい家に施して歩いた次郎吉が人気を呼ばないわけはない。遂に一万二千両で首を刎ねられた。庶民は密かに結縁を結んで次郎吉の墓を削り取ってゆく。堪え忍ぶ暮らしの中で、縋る思いで次郎吉に助けを求めた。そんな健気な気持を誰が笑えようか。私にとっても忘れられない思い出がある。中学校は川向こうの隅田川に面した中央区にあった。私の頃は両国の川開きは目の前で行われた。仕掛け船が何艘も並ぶ姿は壮観であった。花火があがる度に玉屋、鍵屋と掛け声が飛んだ。目立たない子供だった私は或る日、誰もなり手がなかった駅伝に駆り出されてどうしたわけか優勝してしまった。続いて中央区の長距離に出場したらこれもまた創立以来一度もなかった優勝をさらってしまうのだ。学校側も驚いて全校生徒の前で快挙を披露したので私は一躍有名になってしまった。一番驚いたのはこの私だった。中央区代表で東京都の大会にも出るようになった。しかし、本当の苦しみを味わうのはこれから後のことだった。学校も期待するし、女の子にも声を掛けられるようになった。陸上部から誘いがきて練習も始めた。隅田川の川沿いに学校から新大橋を渡たり両国橋を巡って帰ると二キロ強になる。私は登校すると人知れず必死に練習した。再び優勝するとは思えないし一度手にした小さな栄誉も手放したくなかった。対象の距離が三千米なので一廻りでは不安になって二廻りした。その御陰で二年目も優勝した。しかし、この練習は身体能力もなく貧弱な私には大変な重圧であった。平気を装っていたが実のところ息も絶え絶えの状態だった。もう勝てないのではないか、という不安が私の精神を強迫した。それを振り払う為に二廻りが三廻りになった。三年になると受験も重なって遂に道筋の回向院に廻って次郎吉の墓を撫でては勝利を祈願するようになった。当たるとは思えないが苦しまぎれに神に縋るのだ。それを笑える人は余程サイコロを振って安全の道しか歩んでこなかった人だ。後年、世界の女性を痺れさせたエルビスプレスリーが死後、人気が落ちるのでは、という不安から薬付けの日々を送っていたことを聞いて喪心から同情を禁じ得なかった。心の琴線を振るわせたラブミーテンダーの甘い歌の裏側でエルビスは命を削って世界中の人々に陶酔を届けたのだ。,,
2005.10.19


 

ソクラテスの休日

ようやく秋空が拡がった土曜日に六本木へ芝居を観に行った。なかなかいい芝居には出会えないが、このところいい作品に恵まれた。俳優座で長谷川孝治作「湖の秋」を観た。演出家がジックリ取り組んだ味わいのある舞台だった。久し振りの浜田寅彦も元気だった。先日のロナルド・ハーウッド作「ドレッサー」と共に役者が腰を据えて舞台を締めると、人生のホロ苦さが惻々と伝わってくる。こちらは平幹二朗と西村雅彦が劇の緊迫感を余すところなく見せてくれた。感動の余韻につられて六本木ヒルズへ行った。毛利庭園には鮮やかな色の紫式部が一杯、路にこぼれていた。此処は毛利日向守の屋敷で赤穂浪士が本懐の後に領置切腹したことでも有名な屋敷址だが、蓮の花咲く池にアニメのモデルを浮かべる無神経さは文化財に対する俗悪な冒涜も甚だしい。風雅を忘れては文化も猫に小判になってしまう。
 私は書籍に埋もれて地震が来たら潰れてしまいそうなボロ家に住んでいるが、庭だけは自身の思いを込めて長いこと向き合ってきた。私達の子供の頃は日本中が貧しくて、その分懸命に働いた。四十代になると毎日満員電車に揺られながら窓外に流れる風景を見ていて、このままでいいのだろうか、と考えるようになった。そんな時頭から離れなかったのがソクラテスである。才能もなく凡庸な私が世界一の賢人を引き合いにだすのは大変恥ずかしい限りだが、名声をほしいままにしたソクラテスに或る日、国から使いが来た。どんな望みにでも応える用意があるので欲しいものを言って下さい、と使者は丁重に問うた。
ソクラテスは言った。「それは大変光栄なことだが、どうか目の前に立って陽差しを遮らないでくれませんか。私の望みはそれだけです」この逸話がいつも頭にあって私は遂に庭をつくったのだ。室町時代に日本へ布教に来たロドリゲスの「日本教会史」に書かれている市中の山居を再現してみたかった。作庭の基礎部分は庭師を呼んだが、その後はソクラテスの休日に倣って自ら造作と養生に取り組んだ。
 自然は逞しく荒々しかった。正に格闘の連続であった。その内何とも言えない喜びに変わった。自然は生きていて様々なことを教えてくれた。人間のすることなど微々たるもので、精妙な自然の摂理に驚くばかりだ。だが、いいことばかりではない。手入れを怠るとくちなしなど蝶の幼虫に葉を全て食べ尽くされてしまったりする。今、一番切望しているのは水を求めてやってくる鳥達が落としてくれる種の中から曼珠沙華が咲く時だ。突然咲いた時には朱色の見事さに目を見張った。だがもう四年も見ていない。白系と朱系の花とか実が好きで梅もどきやそよごなど、もう植える場所もない程だ。今年も曼珠沙華が咲くのを今か、今かと待っている。 
2005.10.03



平和と四中吹奏楽部に乾杯

 平成十七年九月三日、国分寺市平和祈念行事のオープニングは四中吹奏楽部の八本のトランペットの高らかな吹鳴から始まった。野口さんの指揮棒から引き出される十三種類六十一名の各パートが、小気味よくスイングしてグランドマーチは一挙に観衆の心をつかんだ。管楽器の明るく伸びやかな音感が主調をつくる中に、シンバルや太鼓が力強くリズムを刻んで追ってゆく。十一本のフルートと五本の横笛も負けじと滑り込んで音が混然一体となって調和しホールに響き渡った。サックスの痺れるようなサウンド、トロンボーンの軽やかなリズム。観衆は脚で拍子を取り、首を振って音のシャワーに酔った。SMAPでお馴染みの「世界に一つだけの花」は平和への幸福感と人間一人一人の大事な存在意義をわかりやすい言葉で若者達に語りかけた。四中の生徒達は、そのメッセージを確実に音を通して観衆に伝えた。見事な演奏であった。<br /> 私は前日迄の練習風景に立ち会った。念入りなチューニング、音の存在感をめざして繰り返される各パートの練り合いも決して中途では止めない。完成度をめざして生徒達は果敢に取り組んだ。フルートは数が多いのでなかなか合わない。その時も他のパートは辛抱強く待っていた。チームの一体感が損なわれては全てが失われる。生徒の一人一人にその自覚があるから練習への取り組みに揺るぎがない。そんな弛み無い錬磨を観衆は知らない。観衆に最高の舞台を提示する為に費やされる努力と献身は生徒一人一人のものだが、その本質は芸術本来のものだし、それこそが平和の礎となる道筋であることを四中の吹奏楽部の生徒達が示してくれた。その志を受け取る責任はむしろ観衆にあることを、この行事は示している。
 この行事を陰ながら支えた国分寺市秘書広報課の皆さん、渉外に追われた峯岸課長、最後迄構成に苦労した畑係長、財政が厳しいので一生懸命プログラムを手作りで作った高杉さん、毎日夜遅くから開演ぎりぎりまで変わる演出の駄目出しに、その都度調整に追われた宮崎さん、それ等の職員一人一人の努力が市の平和へのメッセージを伝えて余すところはない。大事なことはその後にあった。行事が終わり取り付けた部材を引き下ろしたり舞台を片付けている時、峯岸課長と共に四中の生徒達がずっと待っていて椅子の片付けや、舞台の撤収を手伝った。こんなことは当たり前だと言える大人は今、どの位いるだろうか。皆んな偉くなりすぎている。どうして、そんなに肩をいからさなければならないのか。純粋に音楽に取り組んだ生徒達は、なんの功名心もなければ、観衆の賛辞にも酔わない。埃まみれの作業を皆んなと一緒になって片付け、終わると手を振って会場を後にした。我が敬愛する五島みどりさんと一緒だ。だが、みどりさんは偉い人だ。しかし、この人の目線は何処迄も我々と同じで、そして暖かい。今、此処に小さな芸術家達が誕生した。凡百の芸術愛好家は掃いて捨てる程いる。ましてや芸術など人生にはいらない、と語る偉い大人は世の中にごまんといる。そうゆう大人達が一度でも世の中を変えた話は聞いたことがない。だが、時代を変え、時代を創くる芸術家はそうやすやすとは生まれない。旨い酒と一緒で百年の河清が必要だ。国分寺市よ、名を惜しむならこの子等を育てよ。
2005.09.15



ささやかな平和祈念、国分寺市の場合

, 平成十七年九月一日付の市報に市の平和祈念行事の記事が掲載される。市庁舎の入り口の基礎柱に平和の灯は掲げられている。知らない人は柱を拝んでいるのか、と勘違いしそうだ。質素である。今年も市長と在住の小、中学生が折り鶴を持って広島の平和祈念に参加した。広島の式典はイサムノグチが設計した巨大なモニュメントに、小泉首相も駆けつけ何百羽の鳩が放たれる中、吉永小百合の詩の朗読、世界的なチェリストのミッシャマイスキーがカザルスの「鳥の歌」を演奏する厳粛、荘厳な儀式であった。それに引き替え国分寺市はなんとささやかで控え目であることか。粛々と祈念の目的を果たす。ただ、それだけである。それが十六年続いている。それでいいではないか。大事なことは平和の大切さを市の理念として、市民と共に祈ることに尽きるからである。
 次ぎに貧しくとも、志だけは熱い、もう一つの催しについて伝えたい。来る九月三日午後二時より、いずみホールにて市の平和祈念行事が開かれる。此処には吉永小百合はいない。いるのは市在住の人前で声を出すのが恥ずかしい、と悩んでいる主婦や、厳しい勤めの合間に自己表現をしてみたいと集まった人達が、ささやかな芝居を披露するのである。表現はまだまだ拙い。演出の田口さんが時々頭をかかえている。だが真剣さには打たれる。円熟するには本人の努力と、あとは時間を待つしかない。私はジット奥の座席で練習風景を見ながら、当日は無事に終わるようにと願うしかない。舞台では、本番に向けて照明や音響の技術者が調整に余念がない。何度も機器の操作が繰り返されるなか、舞台に向かって秘書広報課の高杉さんがタイムテーブルの確認をしている。時間は既に夜の七時を過ぎて疲労も重なってきたのであろう、しかも日曜出勤である。フト舞台に誰も居なくなって安心したのか、高杉さんが突然トウシューズを履いているかのように脚だけのバレエの動作を始めた。私が居ることを失念しているのであろう。屈託して身体をほぐしている。私が目を見張ったのはその脚の上がる高さである。背丈を遙かに超えている(ちなみに彼女はスカートではないので念の為)私が感動したのは、その無心な伸びやかさである。今、芝居の稽古をしている人に伝えたいのは、うまく演ずることではなく、目一杯の自然な動作である。抑制はその後からついてくる。そうすれば観客はきっと舞台からのメッセージを胸に受け取るであろう。当日は沖縄県立第一高等女学校の生徒の手記を基にした物語である。伝えたいことは唯一つ平和への願いである。
 市民の皆さん、この日は広島へ出かけた子供達もかけつけるし、市橋さんの指揮する合唱もあります。もし、劇団員の芝居が胸に落ちたら拍手をお願い致します。
2005.08.15



 星野市長のメッセージ

 8月6日広島平和式典、8月9日長崎平和式典があった。いずれも原子爆弾の惨劇を第二次世界大戦の敗戦国の日本人が、人類として始めて受けたのである。殆どが非戦闘員である。戦争は再び起こしてはならぬ。平和こそ人間の存在の条件である。そんな思いで府中の片隅から女性達が始めた平和チャリテイ、コンサートが今年二十年目を迎えた。この継続の力が今年も広島、長崎市長のメッセージを頂き府中の森芸術劇場で開かれることとなった。(平成十七年十月三十日午後一時三十分開演)しかも近隣6市合同(府中、稲城、調布、多摩、小平、国分寺市)の催しにまで拡がった。その実行委員会が去る8月2日府中文化センターで行われた。私の仕事は、その大会をサポートすることだが、丁度当番制の議長が私の番にまわってきたので議長提案として、一つの提起をした。平和を祈念する思いは人類として普遍のものであるから、開催する6市の市長一人、一人にこの大会にむけてのメッセージを依頼してはどうか。暫く沈黙があった。今迄に例が無い、書いてくれるかどうかわからない、との意見があった。私は答えた。平和への思いを込めて、これだけの歳月を重ねてきた。この事実に対して現実の世界は一向に平和への兆しすら見えてこない。否、むしろ相変わらず世界中に戦禍は拡がるばかりだ。それならば平和への運動はますます続けて、拡げてゆかなければならない。市長のメッセージは、そのささやかな一歩ではないか。是非、実現して平和への意志を添えてもらうことにしよう。幸い、星野市長は快諾した。美しい言葉はいらない。人々の胸にしっかりと下りてくる言葉がほしい、心を込めて。(なを国分寺市の演目は民芸の田口精一氏演ずる大橋喜一作「Zという街」である。市民の皆さんも是非平和の集いに参加していただきたい)
2005.08.11



ゆかしさと優しさと

 今の若い世代は別として、私達が初めて手にするIT器具はおそらくワープロが最初であろう。一台10万円以上だった。小さな旅行鞄程の大きさだった。しかし、その取扱説明書が豪華で5種類程合わせると厚さが20糎は超えていた。操作にゆきづまると説明書を読めば全て理解出来た。今のパソコンは説明書がほとんど無い為、一人で使いこなすことは不可能になっている。それも、製造メーカー側に正しい国語で説明出来る技術者がいなくなってしまったのでは、と思われる程日本語がわかりにくい。戦後60年経って日本は、おかしいところに迷い込んでしまったのでは、と心配だ。だからこそ文化の伝承と創造は今程必要な時は無い、と思っている。話は逸れたが、そうゆうわけでこのブログを開設するのに、色々とパソコンの技術を小野さんに教えて頂いた。ようやく使えるようになって、まず最初に小野さんに感謝の意を表したいと、私のブログにフルネームで記録することを相談したところ「私は仕事を普通にしているだけなので、特別なことは遠慮したい」とのことであった。私は改めて「成る程」と感心し、小野さんの態度に日本人女性らしいゆかしさを感じた。私は咄嗟に谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を思いだした。新しい文化も必要だが、日本人が残してきた古来の伝統こそ、守り育ててゆかなければならない、と私がずっと持ち続けている文化観に改めて正しさを再認識した。能文化に長年打ち込んできた堀内さんが聞いたら、きっと狂喜するに違いない。私も何かというと口を挿みたくなる自分の性格をつくずく恥じた。(この文中算用数字を使用したのは35度を超える室内で早く処理する為であることをお許し頂きたい)
2005.08.06



打てば響く対応

 ,昨日、市庁舎にて文化振興会議があった。私の提言も議題になった。本来は次回の条例策定会議で検討される内容だが経過を知りたいということで披露された。会議終了後、内藤さんが近づいてきて「これは行政への注文じゃないの」と言われた。私は思わず心中得たり、と笑った。正に打てば響く対応の素早さに興奮した。是には裏があった。7月の会議で「市の役割」と「市民の役割」が討議され、なかで「市の役割の方が市民の役割に対して過大すぎる」という意見があった。私は「始めから数合わせのように、役割を合わせるのはおかしい。議論を重ねた結果、偏重があれば改めて討議しよう」と主張し、そういうことになった。そこで私は行政側の責務が減らないようにあらかじめ市民の役割の中に、行政の作業を潜り込ませておいたのだ。市民側にとって譲れない行政の仕事を、市側に強く認識して頂きたい事柄だからである。結果的に目的は達せられた。内藤先生の炯眼に改めて敬意を表したい。会議は始まったばかりである。しかも市民にとって市民権を拡大する重要な案件である。行政側もそれを承知している。この先、いい果実が得られるものと期待したい。
2005.08.05



一粒の麦もし死なずば…

  聖書の言葉である。自分が何処とも知らない野面でたとえ朽ち果てても、きっと誰かがそこから芽を出して花を咲かせてくれるに違いない。私はブログ開設のお祝いに、その言葉を使ったが、その時はその意味通りではなく「生きて役立つ」事について書いた。今回はそのことについて書こう。
 私達は平成十三年十二月七日公布した文化芸術振興基本法に基づいて国分寺市にも他市に負けない文化振興条例をつくろうと行政側と議論を戦わせる為に集まったメンバーである。行政の職員一人、一人こそ市民にとって一粒の麦に値する大事な種(シーズ)に他ならない(種にならない職員もいる)こうゆう行政の職員と市民は、労力を惜しまず共通の目標に向かって協働の精神で働き合う姿こそ文化振興の体現に他ならない。まず、市民と時には喧嘩腰で議題を論じ合う筆頭に文化コミュニテイ課の内藤課長がいる(私と同じでイケメンではないが笑うと男の色気が出る、野球がうまいと聞いたが信じられない)彼が自在な指導力を発揮してまとめている。そこに各係から選抜された太田さん(この人の該博な民間伝承の歴史にはしばしば教えを乞うている)大平さん(文化会館では報われない苦労をした)担当の福島さん、清水さん、そして江戸文化に詳しい秋山さん(法制担当)この人達が最近やっと本腰を入れて忙しい本職の合間を割いて条例の骨組みに汗を流している姿が見えてきた。その姿勢は誠に尊い。市民も口だけ出してお茶を濁しているようでは失礼にあたるので、いい条例を作る為に努力を傾けたい。他市の例を見ていて、その市でなければ作れない柔らかで弾みのついたいい条例を作った市があり、私としては畏敬の念に打たれたが、おしなべて国の法令を真似て従来通りの官僚構文を並べた優等生だが魂の入らない作文が多かった。国分寺市はどうなるか。また、コンサルタントが市民の意向を抑圧するような振る舞いをしているのに、見て見ぬ振りをするような街づくり条例と同じになるのではないか、と心配だ。
 とりあえず「市民の役割」についてのたたき台を提示する。
 平成十七年八月三日、処暑空中に満つ
第四条、市民は文化芸術の創造と伝承と享受については自らの信念に基づいて自由に行動することが出来る。市はそれら市民の活動を保証し、時には必 要 な発現の為の措置を講じなければならない。但し、市民の発現に、公益に抵触すると考えられる場合には公益審査会を市長の発議により、一ヶ月以内に開かねばならない。審査会は公開を原則として討議し、その結果を市長は尊重し、市民に伝える。市民は決定に不服がある場合は申し立てることが出来る。公益審査会は別条に定める。,
2005.08.03



こくぶんじブログ第一号

 ,文化振興会議のブログが開設された、と聞き開いてみました。担当の小野さんのご尽力に厚く感謝致します。開設のお祝いとして一文を送信致します。7月3日に市長選挙があり、星野氏が再選されました。私も祝賀講演会に行きましたが、圧倒的な勝利であったが為に、正に朝青龍のように意気盛んな所信表明でありまずは市民として今後を期待したいと思います。さて、本文に入りますが、大規模な生産機能としての工場もなく、ショッピングモールを抱える消費地帯も貧弱な国分寺市にとって、文化の振興は都市再生と興隆をはかる上で欠かせない潜在的なコアであることは論を待たないであろう。その意味で、過日のPFIが破産したことは市にとって大きな痛手である。市民の中には活動を予測された劇団に対して、歓迎しない人達もいた、と聞いている。私は公平を期する意味で、この劇団の公演を実際に見てきた。世の中、理想を言ってはキリがない。日本における現実の商業演劇の劇団の中では平均を超えるとみた。この劇団を善し、としなかった市民にその理由を聞いてみたい。議論あってこそ、市民は育つのです。大いに賛否について公開で論じたいと考えます。その為にこのブログは市民に広く公開されているのですから。私はおそらく行政側の職員の中で、この計画の実現に向けて努力を傾けた職員は数多くいたと思う。市民の為に日夜、情熱を燃やしてきた、それらの努力に対して何ら、一顧だにせずに切り捨てるとするならば、それこそ文化振興の育成をはからねばならない、この時にあたって、おおきな損失であろう。是非、一粒の麦もし死なずば、も尊いが、活かしてこそ文化振興は花咲き、実りの果実を結べると思いますが如何でしょうか。ちなみに、この公演の日、池袋駅から劇場までの沿道には何十本もの劇団名の入った旗指物が風に靡いて、観客はさながら既に観劇の予感に興奮しながら入場したことであろう。公演は補助席も出る程の盛況で若い人達に混じって高齢者の方も多くみうけられた。この光景を国分寺市で再現されなかった文化的、財政的損失は計り知れない。文化は消費するだけではなく、生産的な要素を発掘し、育ててこそ今日的な意味があるのであり、その努力こそ国分寺市を成熟させる基盤とならなければならない。最後に劇団公演の終幕で主人公が語るセリフをもってこの文の結びと致します。 俺は生きる。このまま苦しみながら生きることが最も辛い道だからだ。おまえも生きろ。どんなに苦しくても歯を食いしばって生き抜くのだ。
2005.07.26



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