こくぶんじブログ 〜内田博司〜 本文へジャンプ
,杉原輝男

 杉原輝男がヒッソリとこの世を去った。七十四歳だった。プロとして決して本心を明かさなかった。優勝の喜びを記者が期待しても「金が欲しいからさ」とうそぶくだけだった。身長は百六十二糎しかない。それでいて五十年の経歴で六十三勝をしている。この数字は不世出の成績である。ジーンリトラーも及ばない。背の足りない分長尺のクラブを振る。スイングは素人からみるとスライスをしてしまうのでは、と思うが正確にフエアウェイに球を置く。時にはわざとバンカーに入れる。飛距離もでない。それでいて誰にも負けない輝かしい戦績を残した。だから尊敬を集める。ふてぶてしい尾崎将司ですら一目置いた。脚光を浴びて豪華な千試合出場の祝賀を打診された時尾崎は「杉原さんがして貰わないのに俺はやれないよ」と辞退した。杉原が「ゴルフ界の為じゃないか」と叱った。
 努力を表に出さない人だった。そのことはプロより素人の方が知っている。誰だって熱くなることがある。ゴルフをやる人なら日夜練習に励んだ覚えは誰にだってあるだろう。しかし、その内に気がつくのだ。栄光は果てしのない先にしかないことを。青木功だって十トンダンプに一杯の球を打ち込んでいるのだ。幾多の屈辱と血のにじむ練習の先に、ある時ポッカリと青空が覗くようにビシビシと球が軌道に乗りホールに吸い込まれる時があるのだ。それはただ練習と強靭な精神力がなければ届かない世界なのである。その向こうに杉原が立っていた。いつもシラッとして我々凡人の隣にいるような顔をしていたが、唯一つ「気骨」のある人だった。今はそんな人は数えるほどしかいない。  
2011.12.30



ロング、グッドバイ

 第二の敗戦といわれた平成二十三年もあと一日で終わりを告げる。東北の行方不明者はまだ三千五百人を超え、吹き付けるみぞれの海岸線を消防団員が探索棒をかざしながら岩伝いに人影を追っている。師走といっても妙に落ち着かない年の瀬だ。
 そんな時に観た文学座アトリエの会の「テネシーウイリアムス一幕劇集」のことをずっと考えている。演出の田俊哉はテネシーウイリアムスが舞台とした千九百三十年代後半の社会が、現在の社会状況に投影していることを意識してこの作品群を取り上げた。その方が時代を俯瞰として捕らえられるからだ。私はウイリアムスが「欲望という名の電車」「ガラスの動物園」と書き続ける縦の線として「ロング、グッドバイ」に着目した。グラウンドゼロは既に半分以上建設が進んでいるようだが、その一つのビルの高さはアメリカの建国の年にちなんでいる。事実、ワシントンDCにあるたくさんの米国旗に囲まれたワシントン塔は年間二百万人が全米からやってくる。こうした愛国者がアメリカを支えているのだがテネシーウイリアムスの主人公達は、そうした光を受け止める影として存在している気がしてならない。「欲望という名の電車」のブランチ「ガラスの動物園」のローラは「ロング、グッドバイ」のマイラに通底している。彼女たちの「はかなさ」は女性でありながら母にはなれない。その母性を阻む「猛々しさ」こそアメリカの銃社会を支える偏執的な「正義への信奉」にある。この「力への支持」がフト足元を見つめた時に、自身の足裏からジワジワと這い上ってくるのがウイリアムスの「追憶」なのである。これは果たして「幻想」なのだろうか。かって実際に確かな感触として手にしたものであろうか、それさえ不確かな危うさだが心の中にははっきりと涙のように降り注いでいる。アメリカが建国以来二十世紀の盟主として君臨してゆく道程は丁度ニューオリンズからプレスリーを生んだメンフィスを通り工業都市シカゴへと北上しながら繁栄してゆくのだが「ロング、グッドバイ」の舞台であるセントルイスはその途上にある。ジョーはそこにも居場所を失って今立ち去ろうとして舞台の幕が開く。行く先はもはやニューヨークでもない。ジョーの苛立ちの中には暇を持て余して女を漁る上流子弟にたやすく誘われてゆく妹ローラへの愛惜がある。かっては地区代表の水泳選手であったローラをどうやっても自分では助けることが出来ない。揚げ句の果て男の本心を知って傷ついて帰ってくる妹を優しく迎えてやる雅量も持ち合わせない自分。ジョーはその全てに別れを告げようとしている。
 「俺達はいつもいつもさよならを言っているんだ、生きている一瞬一刻にむかってね、それが人生というもんさ、ながいながいさよなら(ほんど泣かんばかりに激しく)今日もさよなら、明日もさよなら…」(倉橋健訳)
 テネシーウイリアムズは舞台装置を克明に描写する。時代背景すら細密にまるで衣装のように描き出す。乗峯雅寛はその雰囲気をよく捕らえた。田はアトリエの会の六十年前になる再演に応えて、この今の時代に相応しい定着をした。文学座の掉尾を飾る舞台だった。
2011.12.30



藤袴

 平成二十三年十二月九日、朝から降っていた雨が雪に変わった。東京では初めての雪だった。地面に落ちた雪は積もらなかった。気温二、七度。手がかじかんだ。詫び助が身を縮めるように地面に散らばっていた。高い枝にはソヨゴが朱い実をつけた。その上に雪が舞っている。師走にはいって季節は一足飛びに冬に入った。机の先に備前の花器がある。今そこに季節外れの藤袴が生けてある。葉は枯れているが花がそのまま残っている。顔を近づけると幽かに香りがあるのでそのままにして眺めている。この間、日本橋の千疋屋に行ったら科学の粋を集めてバラやダリヤが生きたまま三年はそのままの姿で部屋飾りとして売られていた。藤袴は自然のまま特別な細工はしていない。仄かだった藤色の景色は消えてしまったが盛りのまま残っている。庭から切り花として移したが愛着がだんだん湧いてきた。元はといえば酒井抱一が描いた「夏秋図屏風」にあるのだが、あの繊細な細密画の気品が印象に残っていた。数年ほど前の新聞で藤袴は秋の七草だが既に日本では絶滅危惧種になっているという記事を読んだことがあった。そのまま忘れてしまったが、ある時国立市の種苗店の店先で偶然見掛けて鉢のまま買ってきた。その時花は付いていなかったが、庭に植えて秋のくるのを楽しみに待った。だが花は一向に咲かなかった。春になると芽を出し茎は伸びるのだがそのまま何年も経ってしまった。やはり花は無理かも知れないと思いながら毎年、周りの雑草を取り除いてはいた。そして今年の異常な暑さに人間が参ってしまった頃、竹垣の脇を覗いたら花が見事に咲いていた。それも九月ではなく十月も遅くなってからのことだった。特別と言えるほど派手な姿ではない。だが何ともすっきりと品があった。やはり酒井抱一が描いた藤袴がそこにあった。そのまま備前の壺に活けて眺めているが見飽きない。柔らかい筒状の小さな花がこんもりと毬のように拡がった。花は藤色に輝いた。やがてその筒状の花から白い二本の角が生えてきて全体が舞妓さんの花かんざしのように震えた。日本の懐かしい風景がそこにあった。密やかで優しい花々がいつか山野にずっと拡がってゆく姿を思い描いた。
2011.12.09



青年座の挑戦

 青年座の誕生は昭和二十九年である。華々しく登場した唐十郎の状況劇場、寺山修司の天井桟敷、つかこうへい事務所よりずっと早く俳優座養成所を卒業した俳優達によって結成された。それは丁度日本がやっと敗戦の飢餓状態から脱して、日本の復興を日本人の手によって成し遂げようとする時期に重なっている。その意味では東日本大地震を経験した今の日本とも重なっている。青年座公演を始めて観たのは永井愛作、黒岩亮演出「パートタイマー秋子」である。平成十五年紀伊国屋ホールであった。余り知られることもなく終わったのは残念だが演劇史にも刻まれる作品であった。この時秋子を演じた高畑淳子は日本放送協会の大河ドラマにも名を連ねるようになった。一番印象に残ったのは因業なオヤジを演じた森塚敏である。彼こそ青年座を興した創立メンバーである。その人達はもうこの世にはいない。
 今年の九月になって古川貴義作、磯村純演出「父が燃える日」を観た。時代が大きく変化していることを痛感させられる作品であった。大きな様変わりは向田邦子の描く家族に君臨していた父親はもういないことである。この作品は向田の父親が消えてしまった以後の家族を、現代の風俗も詰め込んで妻に逃げられた長男が企てた二泊三日の家族旅行の顛末記である。父親の還暦を機会に姑との諍いから家出をしたままの母親とよりを戻して貰おうと長男が、旅館にも協力を頼み家族には内緒で母親を旅館に呼び寄せている。ところが次々とハプニングが起き、父親は不倫していた女性と再会するし、妹には不倫の相手が飛び込んできて大騒ぎになってしまう。挙げ句の果て押し入れに隠していた母親まで暴かれてしまう始末。最後は父親と母親はよりを戻すのだが、これで家族が納得して暮らしてゆけるのか。長男の描いた企画は家族のためになったのか、を観客に提示する。姑に言われて八年も帰って来ない母親は残した子供のことをどう思っていたのか、父親は妻を取り戻す努力をしたのか、それ以上に不倫をして自分の子供まで堕ろさせた部下が目の前にいるのに何もしなくて良いのか。問題は山積しているが演出の磯村純は、この劇画調の家族劇を目まぐるしく出入りを強調して、むしろ不自然さを見事に消している。圧巻はクライマックスである。台本はさりげなく書いているだけだが演出の磯村は愚図で身勝手な父親がなかなか吹き消せないケーキに立てた蝋燭を、変わって母親がひと吹きで全ての火を吹き消して行動を促す決意の表明を鮮やかに示して明日を暗示していることである。これでこの劇の救いが出来た。装置の根来美咲もその意図を見事に助けた。都内でもメッタに見られない廻り舞台を廻して作品のドタバタ調に懐古的な色合いを出し、旧来のモラルに斬新な味付けをした。演劇の醍醐味がわかる芝居だった。
 青年座には一つの大きな財産がある。創立メンバーの西島大が書いた「昭和の子供」である。作者がどうしてもこれだけは書かなければ、と昭和時代の証言として取り組んだ作品である。新劇が時代の証言者たらんとして誇りを持って生きた時代の作品である。今、この青年座が国分寺市の文化活動に一つの光を掲げようとしている。磯村純、根来美咲その他青年座のスタッフが全力を挙げて来年の二月、この町に大輪の華を咲かせようと挑戦している。
2011.10..26



震災から七ヶ月

  津波が町や畑を呑み込んでゆく映像が頭から離れない。いまだに三千九百二十三人の行方不明者を捜す家族がいる。遺骸を確認できないまま「死亡認定」をするには家族として身を切られる思いがするだろう。瓦礫もあらかた片づいたが細部の映像を見ると人間の手には負えない程、車の残骸やコンクリート塊が転がっている。避難場所は全て閉じられてしまった。行き場のない人は臨時待避所に移った。寄る辺ない廃墟に八十歳を超える女性が一人で生きてゆく姿は痛ましく、孤独の影は深い。まだまだ東北の秋に安穏な日々は遠く、一日も早い政府の助けが必要だ。
 震災の後には厳しい夏が続いた。熱中症の死者も全国に及んだ。その夏の盛りが皮肉にも我が小庭に豊穣をもたらした。紫式部から始まって梅もどきが沢山朱い実をつけた。かってない出来事だった。ホトトギスやくちなしも咲いた。なんと言っても鳥が運んだ彼岸花が三輪も咲いたのには驚かされた。これで震災へのささやかな供養が出来た。足繁く庭に下りては花を眺めた。しかしその時期は束の間のことであった。秋風が吹きすぎた後には一斉に金木犀の香りが辺りに立ち籠めた。アルチュールランボーが呟いた。
「もう秋か、それにしても何故永遠の太陽を惜しむのか」と。(小林秀雄訳),
2011.10.12



中秋の名月

 九月十二日はしみじみと夜空を見上げた。雲が走っていた。虫の声も聞こえる。せわしなく日を送っていると虫の声すら耳に入らない。木槿が庭でヒッソリと咲いていた。東北の大震災から一昨日で丁度半年が経った。あの時は津波の荒れ狂う町に雪が舞っていた。身ひとつで避難している人々の寒さが身に迫ったのを思い出す。そしてこの日のテレビは骨組みだらけの廃屋の間から満月を映していた。陸地に乗り上げたままの巨大な船をバックにした映像もあった。めまぐるしく世間は変わるのに被災地の復旧は遅々として進まない。退去を命じられた原発の近くに住む住民から遂に故郷を捨ててゆく人も出てきた。ある日突然に生活を奪われる悲運は他人事ではない。恐怖が切実に感じられるからだ。そう思って夜更けに一度閉めた雨戸を、もう一度引き開けて夜空を見上げた。六年ぶりの満月が皓々と中天に輝いていた。

みる人の袖をぞしぼるあきのよは月にいかなるかげかそふらん                   新古今集  藤原範永朝臣
2011.09.14



なでしこジャパン

  昨年、南アフリカでの男子w杯は白熱したプレーでたくさんの感動を貰った。ところが7月のドイツで開かれた女子w杯は、今思い出しても一戦、一戦涙なくしては語れない。深夜3時過ぎの試合は全て実況で見てしまった。なでしこの選手に比べたら相手はいずれも並外れた体格で、互角に戦えるのか正直勝てるとは思わなかった。準々決勝ドイツ戦では延長にやっと丸山が沢のクロスに追いついて真横から左隅に蹴り込んでくれた。決定力の凄さに女子の底力を見た。準決勝のスエーデン戦では小さな川澄が宮間からの正確なクロスに対して相手に競り勝って貴重な同点ゴールを決めてくれた。気がついたらなでしこが遂に決勝にまで進んでくれた。アメリカとは21敗と長い間勝てない相手である。勝機は何処にあるのか。この試合こそサッカーの神様が日本に味方してくれたのだと思わずにはいられない。どう考えても不思議なのだ。第一は28 分のあのワンバックの強烈なシュートが枠に当たってゴールにはならなかったことだ。日本は救われ前半が終わった。焦ったアメリカの監督スンドハーゲは後半選手を入れ替えた。それが的中しモーガンに日本は一瞬の隙を突かれてカウンターでゴールを決められてしまった。その迫力は日本を応援する観衆の戦意を失わせるには充分の一撃だった。
 「もう終わりだ」これでアメリカに調子づかれ3点は取られ完敗すると思った。ところがなでしこは、ここから息を吹き返した。後半36 分アメリカがこぼしたボールを左サイドからスルスルと駆け上った宮間がキーパーと向き合いながら左に蹴り込んだ。左足のしかも左サイドで左の隅に決めるには冷静さと巧みな技術がなければ為し得ない仕事である。この技にはリオネルメッシだって感動の口笛を吹くだろう。同点になった。アメリカと五分に勝負して勝った一瞬だった。しかしそれは一瞬に過ぎなかった。延長開始直後鮮やかなワンバックのヘデングが決まってしまった。もう時間がない。この一点でワンバックは後に「決定的に日本を打ちのめした」と語っていた。「アメリカの勝利を確信した」と。しかしこの後に奇跡が生まれる。延長後半、宮間のコーナーキックに沢が飛び出して右足で球に食らいついた。日米の選手がぶつかり合った。沢もはね飛ばされていた。それでも球だけはゴールに吸い込まれていた。又も同点になりそして終了のホイスルが鳴った。この一点は日本女子が30 年間積み重ねてきた忍苦と努力に神様が与えたご褒美としか思えなかった。涙が止まらない。21 人と控えの選手がサッカーに懸けた情熱と、支えたスタッフの苦労にただ泣けてくるばかりだ。長友はインテルに移籍して年収は10 億円を獲ち得た。なでしこにプロは6人しかいない。しかも全員ユニホームは自分で洗濯している。後は工場で半導体の製造に定時まで働いたり、スーパーでレジを打って生計を立てそれから練習をする。そうやって積み上げた成果なのだ。観客と変わらない暮らしの中でサッカーの技を磨いたのだ。それがなでしこだった。pk戦になって立場が逆転した。アメリカの方にプレッシャーがかかった。始めのボックスの球を海掘は足で止めた。日本の先頭は宮間である。決めた瞬間宮間は大衆演劇のような見得を切った。その宮間が「pkは運だから勝ったからと言ってアメリカのことを考えれば大げさに喜んではいけない」と語っていた。なでしこは東日本大震災で打ちのめされた日本に大きな勇気と感動をもたらした。小さな巨人達に目一杯の感謝を。国民栄誉賞で次はロンドン五輪の活躍を。
2011.07.29



レデイガガ

 レデイガガが平成23年6月21 日来日した。東北大震災にいち早く救援の手を差し延べてくれた。既に三度目の来日とは知らなかった。その真率な行動が何より嬉しい。白いリストバンドで初めて名前を知ったが早速ライブ盤を見た。開演のステージの袖で「負け犬になっては駄目」と自分を奮い立たせている場面があった。ただのショーガールだったら表向きの為にこんなシーンは見せなかったであろう。気持ちが活きている。衣装が大胆なのは生の精神で張り込んでいるからである。茶目っ気もある。目を伏せると瞼の上に大きな目が描かれていて「現実に目を背けないで」というメッセージになる。緑のカツラや舞台装置が奇異に映るが、生真面目な心根をロックのリズムにのせて大勢の聴衆に時代の風を吹き込んでいる。まだ若いがメジャーになる為に幾多の修羅を踏み、涙を流し心を磨いたのだ。その屈折が痛く柔らかく伝わってくる。
 BORN・THIS・WAY溜め込んだパワーを全快にしてニューヨークスクエアガーデンの夜空にはじける。巻き起こす風が強ければ強い程跳ね返す衝撃も大きい。タトウを刻んで或る時は自身を痛苦に追い込むが、彼女の精神はどこまでも真っ直ぐで正統なのだ。異端に隠した純粋をどうかいつまでもくじけないで貫いて欲しい。コーヒーカップに日本語で書いた「日本の為に祈りを」とキスマークを私達は忘れない。日本のフアンから熱狂的な歓迎を受けている時、アメリカからリストバンドで既に二億四千万円も日本に寄付しているが、一部を着服しているというニュースが入った。年収72 億円を稼ぐ彼女だから何かの間違いであろう。そんなことに立ち止まらないでいつものように社会的弱者の側に寄り添って優しいまなざしを送って欲しい。
2011.06.29



クルム伊達

 深夜につけたテレビにウインブルドンのセンターコートが映った。6月23日クルム伊達が5回の優勝に輝く姉のウイリアムスと対戦していた。雌牛のような相手では一方的だと思っていたら1ゲーム目3ー0で勝っていた。いつのまにか5ー1になって目が離せなくなった。もしかしたら第一セットは勝てるかも知れない。それだけでも勲章ものだ。とにかく強打を浴びないように深く打ち込んだり、ネットに近づいてボレーも決めた。ライジングもまだ活きていた。非力な日本女子が懸命に獣のような魔性を呼び覚まさない為に調教しているようだった。四十歳と思えぬ精神力と訓練の技が光った。カミラ英国皇太子妃も熱心に見ていた。しかし次第に追い詰められていった。6ー6になってアドバンテージが何度か替わった。正に瀬戸際の攻防であった。遂にウイリアムスがネットに引っかけ第一ゲームを勝ち取った。世界ランク1位だった相手を夢のセンターコートで破ったのだ。結局3時間近く戦ったが破れ、場内から惜しみない拍手が沸き起こった。高齢では第一線で活躍したナブラチロワは有名だが非力さで伊達の方が記憶に残るであろう。今から十五年前にも同じような光景があったことを思いだしていた。当時1位だったシュテフイグラフとこのセンターコートで準決勝を戦った伊達はあの時、日没延期にならなかったら絶対決勝に進めたのだ。伊達の戦法にグラフは何故負けているのか完全に自分を見失っていたからだ。翌日、グラフは立ち直っていた。結局負けたが日本はあの時ロンドンの善戦に多くの力を貰った。今回も伊達の活躍に日本中が力を得て貰いたい。
2011.06.24



妙案

 今もありありと地震と津波の映像を思い出す。日常の何気ない暮らしが揺すぶられた。確かだと思ったことが何もかも砂上の楼閣のように崩れてしまう危うさ。あれから何故か全てが物憂く頼りない。コーヒーを煎れて窓から外を見る。紫陽花が雨に濡れて花びらに滴が落ちていた。津波が若者の心をも揺すっている。背の高さや収入の多さを絶対に譲らなかった女性の結婚の条件が変わった。一人暮らしの切なさが束の間でもいい共に生きて心の空虚を埋め合いたい。そうした結婚が増えたそうだ。それで良いじゃないか。ためらっているよりも突き進んでみることだ。障害が生まれたらそこで考えれば良い。人生に良いことずくめなんて一握りの人しかいない。つまずいたら傷口を舐めながら一休みすればいい。すぐには結果が得られなくとも、いつか妙案が浮かばないとも限らない。とにかく人生何が起こるか分からないから。
2011.06.24



世界の人々に感謝

 三月十一日の震災は「想定外」の大地震であったと報じられた。ところが記録が残っていた。貞観十一年五月二十六日(西暦869年)、場所も同じく三陸沖にまたがる地震と津波は逆断層隆起が7米にもなった(日経サイエンス)ある識者が語っている。
 「想定外などという言葉を使ってむやみに言い訳にしてはならない」
 日本中が復興を待ち望んでいる時に、いち早く世界各国が救援の手を差し延べてくれた。被災したばかりのニュージランドも救難犬を引き連れてやって来てくれた。
 驚いたのは肌に金粉を塗って歌い踊るレデイガガと呼ぶショーガールが地震の翌日には被災地のために一時間のチャリテイで一億円を寄付してくれたことだった。不勉強で申し訳ないが私の知らない人であった。その試みに米国に住む多くのエンターテイナーが義援金を贈ってくれた。極東の小さな国の為に世界が動いてくれた。オーストラリアのギラード首相はわざわざ被災地の子供達にたくさんのコアラのぬいぐるみを持って御見舞に来てくれた。多くの人が見守っている日本の復興に、これほど支持を戴けたのには理由がある。一番の理由はこれ程の惨事にも関わらず冷静に事態を受け止めて、再起を図る勤勉な被災民の姿であろう。同じ国民としても多くの勇気を貰った。この名もない被災民の健気な奮起が世界の人々の胸に、何か炎のような灯を点したに違いない。
 こうした支援の中で最も感動したのはカンボジアの小さな村の子供達であった。その少年少女達が家の手伝いをして集めた現金は皺だらけの十二万リエル、その国の教師の一ヶ月分の給料だった。こうした国を越えた小さな善意こそ、苦難に耐え復興を支える大きなエールになってくれる。世界中の国々の人達にありがとう。
2011.05.14



ひとつになろう日本

 東日本大震災が起きて一ヶ月が経った。今でもテレビに映る罹災地の様子は当時と殆ど変わりはない。やっとメイン道路の片付けが終わって車が走れるようになった程度である。海から何百米も離れたビルの屋上には遠洋漁業の大きな船が載ったままだし、陸の至る所に船や車が置き去りにされたまま泥を被っている。人の住む家がこれ程木っ端微塵になるとは思わなかった。津波がこれ程の勢いで全てを呑み込んで流し去るものとは思わなかった。百万人分を養う米作地帯は今でも海水に浸ったままである。何千というカキの養殖棚も、一万隻を超える船も何処へ消えたか分からない。瓦礫と化した町を呆然と見つめる避難民も散り散りの場所に十六万人を数え、死者も一万三千人に達し安否不明の人もそれ以上の数に上っている。三月も末の罹災地では雪が降り朝晩には零下の日々が続いた。それがやっと緩んでどうにか陽差しも暖かくなってきたけれども、まだ心は凍るばかりである。<br /> 本当に何も手に付かない。福島原発の事故が追い打ちをかけている。後始末に追われて復旧の見通しが明らかにならない。日本はこんな筈ではなかった。今迄も幾多の困難をひとつになって乗り越えてきた。それも一度や二度ではない。テレビでは世界の各国から日本への応援のメッセージが届けられてくる。思いがけない地域の中学生や高校生や主婦からも届けられてくる。何か熱いものが伝わってくる。こうしてはいられない。日本人として今でも困難に立ち向かおうとしている罹災した人々に何か心を届けよう。そしてひとつになろう日本。
2011.04.10



アニージラルド

 今年に入っても裏日本では豪雪が続き、屋根の雪下ろしだけで百人を超える死者が出た。九州南端では新燃岳の噴火で火山灰が多くの市街地に被害をもたらした。国会ではねじれ現象で来年度予算案の成立が危ぶまれ連日新聞を賑わせている。日本が災難続きだと思ったらアフリカのチュニジアで暮れに騒ぎが持ち上がった。若い青果商が無許可営業だと警察から商売の屋台を取り上げられ抗議の焼身自殺を遂げたことから反政府運動に火が付いた。ひと月もしない内に大統領は国外に逃亡し、その勢いはエジプトに伝播し四十年の統治を誇ったムバラク政権もその座を追われた。勢いはリビアに飛んだ。世界第八位の石油の利権を一家で独占しているカダフイ大佐は傭兵を雇って遂に、激しい内乱状態になったが解決は長引くだろう。一方ニュージランドではM7の激しい地震が発生し語学を習得に行った多くの日本人学生がビルの倒壊で犠牲になった。そんなわけで平成23年は年明けと共に休む暇もなく落ち着かない日々を送っていた三月一日の夕刊で思いがけずアニージラルドの訃報に接した。懐かしい写真を見て一気に今の時代を映す鏡だと思った。思い出す映画がある。題名は「若者の全て」、原題は「ロッコとその兄弟」である。監督のルキノビスコンテはこの映画でイタリアそのものを描いた。その時のイタリアはそのまま日本の姿でもあった。私達はこの二十年間、バブルの虚栄とその崩壊を目の当たりに見てきたが、その重い影をいまだに引きずっている。そして日本は新しい苦難の道を歩いているが、この映画はその先の光明を予見してはばからない。アニーは人々の罪を背負って刃に倒れたが、人々はアニーの血に購われて再生する。ニーノロータはそんな家族の運命とアニーへの鎮魂の為に胸を揺する歌を綴った。イタリアは日本と共にナチスと同盟を結び連合軍と第二次世界大戦を戦ったが国民はその為に悲惨な敗戦の日々を生きねばならなかった。この映画は夫に先立たれた寡婦が生きる為に故郷を捨てミラノに根を張って五人の兄弟を育て、生き抜いてゆく一家の物語である。この姿には60年代の日本とそっくり変わらない風景が重なる。日本にもたくさんのアニーがいた。時代に翻弄されて身を持ち崩しても男を奮い立たせ、希望を抱かせてくれた女。夢破れてもそっと胸に抱き留めて共に泣いてくれた女。そんな女が日本にもたくさんいた、今でも探せば必ずいてくれるだろう。男は束の間を癒されると再び社会に立ち戻るが仕事に苦闘する内に心身をすり減らし疲れ果てて女の面影すら思い出せない。ところがその女こそ男にとって真実の女であり男を自覚させる女であった。イタリアも復興し一家もようやく人並みの暮らしを得ることが出来た。だがその為に高い代償も払わなくてはならなかった。アニーは死に歴史は今また昔と同じような状況に立ち至っている。その事を生きている私達は虚心に考えなくてはならない。自堕落に生きていたアニーが刑務所から出てきた日、兵役に服しているロッコと偶然に再会した。自分に向かって真剣に人生を語るロッコにアニーは初めて人間的な感情に芽生え愛を感ずる瞬間のアニーのすばらしさ。そして自分も真剣に生きようと自覚したときに逆にロッコの兄(昔の恋人)から辱めを受けて絶望するアニーの痛ましさ。ルキノビスコンテはアニーを通してイタリアの現実と重ね合わせるように一家の成長を描き、アニーはこの映画で陰翳の深い女を世界中に定着させた。ビスコンテは「ベニスに死す」「家族の肖像」を作る前にイタリアへの深い愛を込めてこの作品を作った。アニーよ、あなたを忘れない。
2011.03.11



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