東京は昨日に続き今日も氷蔵に閉じ込められたような寒さだった。池が凍っている。そんな時の空は決まって高く澄んでいる。新聞を広げた。テレビ番組に今夜の十時の「美の巨人」は藤田嗣治と分かった。このブログを読んで美術の好きな方がいたら是非見て欲しいと思いこの文を書くことにした。藤田嗣治が自身の進退を懸けて描いた「争闘」と「構図」の三米を越える大作が千九百二十九年以来幻の作品として長い間行方が分からぬまま美術界の大きな謎とされてきた。千九百九十二年君代夫人よりフランス・エソンヌ県議会へ藤田の作品とビリエ・ル・バクルの家が寄贈されたことにより六十三年ぶりにその所在が分かった。作品は長い間丸められたまま倉庫に置かれていたので傷みが激しく所々剥離している部分もあった。フランス政府により歴史的記念物と認定され五年間に渡る修復作業を終えてようやくオランジュの城で公開された。その後ようやく日本での展覧が可能となったわけだが今夜の番組はその絵ではなく藤田が死の直前に終生の贖罪として後援者であるシャンパン会社のオーナーの拠出と助力でその会社の土地に藤田の思い通りの礼拝堂が建てられることになったことをテーマとしているらしい。
藤田の生涯も又謎であり数奇な運命をたどった。「乳白色の肌」と「線描」でたちまち藤田はパリ画壇の寵児ともてはやされた。だがその頂点で日本が中国に満州国を建国して国際連盟を脱退した昭和八年には帰国を余儀なくされた。そして戦争に突入してからは政府に要請されて戦争の実態を詳細に書き出した大作を発表したがそのことが戦争協力と批判され戦後美術界から活動の場を奪われていた。一度は全てを捨てて三度目の妻リュシーとも別れフランスを去った藤田だったが帰ってきた日本で深く傷つき行き場を失った藤田を受け入れたのはやはりフランスだった。放浪と女性遍歴の果てに年齢を重ねようやく君代と五度目の結婚をして安住の暮らしを得た藤田は昭和三十年六十九歳にしてフランス国籍を取得し昭和三十四年夫人と共にカソリックの洗礼を受ける。そして七十九歳にして発心し礼拝堂建立に心血を注ぎルネ・ラルー氏の助力を得て初めてのフレスコ画に挑戦する。一年間の習作を経て八十歳にして毎日十時間、時には午後十一時を過ぎるまで九十日間没頭して二百平方米、十二枚の壁画を完成させた。それだけではない。骸骨を累々と重ねたステンドグラスの下絵は正に広島、長崎の被爆図であり玄関扉の取っ手の飾り絵や鐘楼の上に立つ風見鶏のデザインまで藤田は自ら描いた。フレスコ画は漆喰を塗りその水分が蒸発しないうちに塗料を塗り込める技法だから一度描いたら修正も加筆も出来ない待ったなしの真剣勝負なのである。その作業に八十歳にして立ち向かうのは命がけの覚悟が必要である。私はこの藤田の必死の姿勢の中に日本人の魂を見る。日本を捨て今まさに死を前にして立ち向かう相手は自分を受け入れなかった国、日本への望郷の思いである。仕事の傍ら浪曲の広沢虎造や美空ひばりに聞き入り日本人形を愛し昭和を生きた屈折の魂を今夜是非テレビを見ながら若い人は静かに考えて欲しいと思います。
参考文献、柴勤「藤田が生きた時代」
2008.12.27
「おくりびと」は今静かなブームを呼んでいる。既に二百万人もの人が観たそうだ。葬式に携わる人の話だから不作法とか不謹慎とか呼ばれかねない際物によく製作者は目が届いたと感心する。考えてみればとても身近な問題だったのだ。お葬式のシーンで思い出すのは「ゴッドフアーザー」だがそれ以上に鮮明に頭に焼き付いているのはスチーブマクイーンの「シンシナチイキッド」である。華やかな楽隊が「聖者の行進」を吹き鳴らしながら街を練り歩いてゆくのをカメラが延々と追っていく。伊丹十三の「お葬式」のように理屈っぽくなく死者を送る祭として生きる者が楽しんでいる風景が映画のテーマとは関係なく今でも思い出す。黒澤明の「生きる」の場面は別格として木下惠介もお葬式の場面が多かった。家族が主題の映画が多かったからうなずける話だ。「おくりびと」は今時珍しく職人的な手間をかけた映画である。まず死人役を選ぶのに二百人もの人を探したというのだから打ち込みようも半端ではない。ただ生きているのに動かれては映画が台無しになるのだから重要な役である。舞台も山形県の酒田、鶴岡を始めから決めているのに名所的な本間屋敷や米倉には見向きもせず地方に埋もれている建物を探し当てて撮影しているから日本の懐かしい風景に会える。主人公はチエリストなのに折角気に入った楽器を買ったら楽団が解散してしまいチエロを手放して故郷へ帰ってくる。地方はもっと不景気で就職も難しい。新聞の折り込みの宣伝につられて行ったのが葬儀屋だった。妻に隠していたわけではなかったが宣伝用のビデオを見られて「汚らわしい」と嫌われ妻は実家へ帰ってしまう。死者に化粧を施して棺に入れる。灰になるのにそんな手間をかけるのか。映画はそのことを説得力を持って描き切り涙を誘う。よく夫婦で利用していた銭湯のお上が亡くなった時に妻も立ち会って、初めて夫の仕事の意味を悟って和解するシーンも人間の切なさを感じさせて好感が持てる。全体として重々しく暗くなりがちな映画に広末涼子の若さと慎ましさが人間味の点景をともす。心が温まる映画だ。
2008.10.25
平成二十年の夏は焙り出されるような夏だった。滝のような雨が降った異常な夏だった。何もかも容赦がなく激しく辛かった。世相も乾いて非情で陰惨な事件が相次いだ。昔の東京は肩に担いだ荷ない棒の後先に桶を下げて金魚売りが練り歩いたり、家の軒先の吊り忍や風鈴の音色が日盛りの道にこぼれていた。夜になると道に縁台を置いて将棋を指した。何時の間にか人だかりがして差し手を巡って笑いが弾けた。今でも国分寺では油蝉が鳴き夕方になって突然雨蛙が庭石にジット動かないでいると思ったら金木犀の甘やかな匂いが辺りに立ち籠める。
深夜、高橋真梨子の歌を衛星放送で聴いた。昨年夏に逝った時代の光と影を綴づる阿久悠の詩だった。ハスキーな彼女の歌が心に絡まって離れない
マリーという娘と遠い昔に暮らし/悲しい思いをさせた/それだけが気がかり
五番街で噂を聞いて/もしも嫁に行って/今がとても幸せなら/寄らずにほしい
感傷が胸を揺する。遠い昔のこと。過ぎ去った遙かな日々。高橋の歌が耳から離れない。フト深夜のテレビ番組表に目をやった。小さく「東京物語」としか書かれていない。半信半疑にチャンネルを回してみた。やはりあの小津安二郎の映画だった。時計を見ると既に十分ばかり進んでいた。見過ごしたファーストシーンは何回も見ているから覚えている。尾道で老夫婦が東京で暮らしている子供達に会うため旅支度をしている。教員をしている末娘が二人のために弁当を作ってから学校へ出かけてゆく。老夫婦が空気枕を何処へしまったかで口げんかをする。窓から通りかかった隣の主婦が声をかける「立派な息子さんや娘さんがいなさって結構ですなあ、ほんとに幸せでさあ」この主婦はラストシーンにも出てくる。この始めと終わりに語る主婦のセリフがこの映画のテーマである。子供達と出会う旅は幸せであったか。小津はこれを二時間十五分の長さでしみじみと人生を語る。賑やかに語り合っていた家族が出かけて誰もいなくなった居間、走り去ってゆく電車をずっと映している画面、人生はやがて過ぎてゆく、そのことだけを見つめた小津安二郎は野田高悟という得難い脚本家を得て二人でシナリオを書き続けた。高橋豊子が演じた主婦はラストシーンでこんなセリフを言って通り過ぎてゆく。妻の東山千栄子の葬儀が済んで子供達は皆んな帰ってしまった。末娘もいつも通り学校へ出かけた。笠智衆はポツンと海を眺めている
主婦「皆さんお帰りになってお寂しゅうなりましたなあ」
周吉「一人になると急に日が永ごうなりますわい」
主婦「全くなあ…お寂しいこってすなあ」
小津の墓は鎌倉円覚寺にある。墓石にただ「無」とだけ書いてある。
2008.09.29
北京オリンピックは八月二十四日無事閉会した。大会を最も華やかに彩ったのは中南米の小国ジャマイカのウサインボルトであった。陸上百米決勝で9秒69という驚異的な世界新記録を打ち立てたのに彼は終盤近く欽ちゃん踊りをしながらゴールした。スタート前には自己流のダンスを披露して観衆を沸かせた。歩幅を2米04で走ったというから誠に驚くべき天才である。そんな調子でケロッとして二百米もあっさり世界新記録で優勝した。史上8個の金メダルを獲った水泳のフエルプスもさすがにボルトには脱帽だろう。一方日本の活躍はやはり女子ソフトボールに尽きるだろう。テレビ視聴率47%が示すように米国戦決勝には大柄な米国選手を相手に小柄な日本人選手が文字通りハラハラドキドキの連続で二度の満塁の時にはもう駄目か、と目を瞑る程の危機だったがよく守り抜いて勝利につなげた。立役者はやはり米国戦、豪州戦との三位決定戦そして決勝を一人で四百球を越えて投げ抜いた上野由起子投手に尽きるだろう。上野を主線としたチーム全員が日の丸をセンターポールに掲げるべく一丸となって取り組んだ成果である。ここに最も日本らしい爽やかで控えめだが大和撫子の健気さが世界中の観衆を魅了した。女子サッカーも負けず劣らずの戦いをした。メダルには届かなかったが体力的に劣勢のハンデイを乗り越え宮間、大野、沢等チーム全員でピッチを走り抜けた。この汗みどろの敢闘は常に越えられぬ壁に向かってゆく不退転の魂として日本人の心を熱くした。こうした華やかな女子の活躍の陰で男子50q競歩の山崎勇喜も地味ながら不屈の精神で7位入賞を果たした。見た目は小学生にも格好悪さを笑われる程なのにその上思い切り走り出せない制約を抱えてしかもマラソンを越える距離を歩き通す競技はしかし人間の肉体を極限の中で再確認する原点のスポーツとして記憶されるだろう。更に今大会最大の劇的勝利者は男子四百米リレーの朝原、末續、高平、塚原の銅メダル組だった。アテネ大会4位といってもメダルとの間は月に衛星を着陸させる程の困難があるのだが米国がバトンミスをして失格しなければ決して獲れなかった程の幸運であった。それが競技の妙味というものだろう。だがその運も選手の涙ぐましい努力がなかったら絶対に勝ち取れない誇らしいメダルであることに変わりはない。朝原の銅メダルが確定した時の驚きの顔は絶対に忘れない。36歳の一途に貫き通した不屈の男の顔である。まだここに書き足りないたくさんの感動を貰った選手は大勢いる。オリンピックはやはり時を越えて人間を賛美する平和な祭典として何時までも世界の各国で開かれて欲しい。しかし今回中国は開催前の北京の空を覆った真っ黒い排気ガスを競技中は真っ青な青空に変えていた。その裏には雨空を予測すると監視用の飛行機を飛ばし消雨用薬剤を詰めたロケットを二百発以上も打ち上げて人工的に天気を青空に変えていた。こうした作戦は十三億の中国の後進性を海外に払拭する為の並々ならぬ国威を感じた。四年後のロンドンでは人間の本来の手触りを感じさせる温かみのある祭典であることを願わずにはいられない。夢から覚めた世界の現実は今余りにも厳しい。体にはくれぐれも気をつけて又いつか楽しいお話でもしましょう。
2008.08.26
北京オリンピックが始まった。早速ビッグニュースが飛び込んできた。欧州の騎士道を体現するフェッシングで女子の菅原智恵子が五輪史上初めての7位入賞が報じられた二日後に太田雄貴が銀メダルを獲得した。日本に全くの伝統もないのに本場の強豪を次々と倒しての快挙と聞いて余計興奮した。早速美談が披露されて自分で果たせなかった父親は自分の夢を息子に託して小さい頃から一緒に取り組んだ努力が実を結んだ。そればかりでなく国が国策的に強化策を打ち出し、膨大な予算をつぎ込んで国が丸抱えで果たした成果というのだから二度ビックリした。快挙の裏には背中に冷や汗が流れる程の話がころがっている。オリンピックは最早国が威信を賭けてのゲームになっている。その意味で一層凄みが加わったと同時に選手にかかる負担は計り知れない。観客は思わず仕事を放り出して魅入ってしまう選手の一挙一動に感動すると共に身をすり減らして成果を期待される選手達の厳しさと愛しさに身が引き締まる思いがする。スポーツをもう一度原点に返って考え直さなければいけない時期にさしかかっている。折しも日本で最もメダルが確実視された女子マラソンの野口みずき選手が肉離れで欠場が報じられたが、これなどは明らかに過重な練習が最悪の事態を起こしてしまった事例といえる。更に輝かしい五輪連覇に輝く柔道の谷本歩実、上野雅恵の陰で57キロ級の佐藤愛子は敗者復活最終戦でブラジル・ガドロスの強引なかけ技で致命的な右膝を痛めてしまった。選手生命が絶たれる程の瀬戸際で争われるオリンピックは痛々しい反面、それだけにゾクゾクするほどの極限の技術に思わず引き込まれてしまう。人間の持つ残忍と陶酔。スポーツははしなくも人間の存在を映し出してしまう。そんな中で平泳ぎの北島の金メダル連覇が紙面を飾ったが、国を挙げて金メダルをめざす野球王国日本は走、打、知力共キューバに圧倒されてグウの音も出なかった。力まかせと思われたキューバは細かい作戦も駆使して37歳の経験豊かな投手をたてて若い日本を振り切った。戦況を冷静に判断出来なかった星野仙一監督の判断ミスである。調子の出なかったダルビッシュは自分でなんとか4回迄同点に押さえ込んだのだから、可哀想だがここで諦めて5回からは頭から成瀬を投入すべきであった。打力が今一つで4回に勝ち越せなかったのだからなおさら心機一転5回から成瀬で戦端を開くべきであった。闘争心が持ち前の星野も結局は国際的には通用しないのか。まだ先がある。死力を尽くしてもらいたい。一方、谷亮子だが準決勝のために通路で待機していた時の表情が忘れられない。今迄見たこともない顔だった。この時愛息は高熱を出して病院で治療を受けていた。案の定試合は為す術もなく敗れた。負けてはならないとする守りの姿勢が攻勢に出られなかった。銅メダルに終わった。金は得られなかったが子供を気遣う日本の母の慈しみ深い戦いの姿は日本中の母達から賛同を得られるだろう。選手達の栄光は事ほどさように運と縁に彩られているが日本の為に戦った選手も戦えなかった選手達にも国は先々に渉って手厚いケアを施してもらいたい。
2008.08.14
平成二十年六月十三日カリフオルニア州トーリーパインヅCCで第百八回全米オープンゴルフが開かれた。手負いのタイガーウッズが至難のコースでどれだけやれるのか注目を浴びた。優勝は最後まで分からなかった。最終日18Hの入ればプレーオフとなるウッズの4mのバーデイパットは難しくて入らないと誰もが思った。余りにも前日迄のプレーが完璧すぎたからだった。タイガーは明らかに疲れていた。テレビで見るとよく刈り込まれたグリーンではなく小石も混ざるような斜めのしかも横からの微妙なアンジュレイションだった。タイガーは狙いを定めて打った。画面がアップになった。荒れたグリーンを弾むように転がってゆくボールが定めがたく揺れた。ゆっくりと進んだ球は右端からゆっくりと回り込んでカップに吸い込まれた。信じられないと思った。幾ら超人でも奇跡を何度も起こせるのか。四月に持病の左膝を手術して練習も満足に出来ずに臨んだ大会だから三日目の13,17Hの奇跡でもう運は使い果たした。誰もそう考えるだろう。事実その13Hのイーグルパットはグリーンのカラーから下りの18mもあるフックラインだった。するすると下った球はゆっくりと左に回りながらポトッとカップに沈んだ。観衆は気勢を上げてどよめいた。前のホールでボギーだったからそれを取り返した上に英国のウエストウッドに並ぶ首位に立つ貴重なパットになった。本来のタイガーならここで勝利への確信となるのだが今回はこのまま首位を維持出来るのか不安だった。やはり次のホールをボギーにしてしまった。全く不安定でおぼつかない。膝の故障がいつもの技術を奪っていたのだ。しかし気力だけは漲っていた。試合は緊張を孕んだまま進行して迎えた17Hはグリーンにのらずラフからの9mになった。ウエッジで打った球はワンバウンドして真ん中からカップに消えた。ウッズは苦笑いをした。このチップインも信じられなかった。事実試合後の会見でウッズは「打ち過ぎでホールがなかったら遠くへ行ってしまうと思った」と語っている。ここでテレビ放映は終わった。深夜の放送でまさか18Hもイーグルとは考えられなかった。これで再び首位に立ったわけだが幾度も膝の痛みに顔をゆがめクラブを杖にしてフエアウエーを歩く姿はまるで殉教者のようであった。死力は尽くした。後は棄権せずに最後まで戦うだけで充分賞賛は与えられるだろう。案の定、最終日は1,2Hでダブルボギー、ボギーをたたいてあっさり首位を明け渡し苦難の一日が始まった。18Hを迎えた時には伏兵のロッコミヂエイトが1アンダーで首位に立っていた。タイガーもウエストウッドもここでバーデイを取らなければ敗退の瀬戸際だった。日本の太平洋マスターズで3連覇のウエストは外しそしてタイガーは前述の通りねじ込んだのだ。本当に信じられなかった。これで明日のプレーオフは地球が潰れてもタイガーが勝つと思った。何度も逃げ切ろうとするロッコをタイガーが必死に追い縋って遂に離さなかったからだ。翌日も1ラウンド終了間際にタイガーはバーデイを取って再び並んだ。そして通算91H目の7mのパーパットを外した世界ランク百五十八位のロッコは一位のタイガーに破れた。ロッコの超人に立ち向かう姿も観衆を魅了したがその都度不屈の闘争心で跳ね返しトップに君臨したタイガーは賞賛に値する。この試合の為に膝が悪化し結局今年度の全ての試合に出場ができなくなった。人はよくこの試合に勝たなくても怪我を治して又勝てばいいじゃないか、と思うだろう。だがタイガーはよく知っている。プロに明日の保証なんて何もない。目の前のチャンスに最善を尽くし戦うことがプロなんだと。足を引きずって戦場を去ったタイガーよ、又いつか何処かのゴルフ場で会おう。
2008.06.22
平成二十年六月八日の日曜日は日本の将来に警鐘を鳴らす日となった。若者に人気の東京秋葉原の歩行者天国の昼下がりである。いつもなら平和な日曜の何処にでもある風景が記憶されるはずだった。それが一台のレンタルトラックが悲劇の幕を開けた。そして銃刀法の規制外だが殺傷力の高い拳銃で有名なスミスアンドスエスソンのダガーナイフ他五本のナイフが次々と若者や老人を死に追いやった。犯人は「殺すのは誰でもよかった」と語っていたが気の弱い神経質そうな男でとても残忍な犯行をするような凶暴さには見えない。むしろ何処にでもいる普通の若者である。そんな男の心にひそんでいたのはやり切れない程の社会に対する敵意であった。その上に自分への劣等意識が人間への尊敬や愛着を奪ってひたすら自分を含めての破壊と抹殺への衝動を駆り立てて遂には取り返しのつかない多くの前途ある若者の将来を奪った。他人の命や自由に配慮する心が全く欠けている。評論家の中には家庭に責任があると叫ぶ者がいる。勿論家庭が社会の最小の共同体だから責任がない筈がない。なんとしても子供を社会の勝ち組にさせたいと願う過大な親心が子供の心を蝕んでいることも事実である。しかしそうした親心を育てる下地こそ国家の責任ではないか。正に施策と徳育の問題である。と同時に一番欠落しているのは家庭を維持するに必要な収入の欠落である。安定した社会的再生産の仕組みを保証するものは国家である。国家が富の偏在を正し社会が円滑に機能するように再分配の方法を考えてくれなければ、歪みは抑圧された若者の中に露呈する。この秋葉原事件の前兆は下関や茨城県や日本の各地で起きていた。こうした犯罪予備の背景は既に根深く日本に浸透し拡大している。もはや一人の犯罪者を極刑にしただけでは足りない。国家の手厚い政策が必要である。その為に国民は国に税金を払っている。今若者の四人に一人は派遣労働者と言われている。その派遣労働者の会社における担当部所は人事部ではなく多くが調達部になっている。正に消耗部品を右から左に調達するように人間を扱っている。そこには明日の保証もなければ勿論病気を治療する保険もない。そうした状態が堂々とまかり通っているのだから国家が認めていなければ出来ないことである。国家の責任は重い。
2008.06.20
国立新美術館でモジリアニ展を見た。好きな画家はたくさんいるがこの人ほど親しみを感じる人はいない。心が折れてどうしようもないときモジリアニは一緒になって慰めてくれる。貧窮のあまりアルコールに浸り麻薬におぼれる悲惨な生活でも女を愛し妻を愛し絵を描き続けた。この人の無頼はもし宿痾の結核に犯されていなかったら健全で陽気なイタリア人気質をもって生涯を終えたであろう。だがそれではこれ程の作品は生まれたであろうか。人は重荷を負うことで人生の陰影を深めてゆく。モジリアニというと長い首をかしげて目を一色に塗りつぶした悲しげな女性像を思い浮かべるだろうが、病状が落ち着いて人生に希望が抱けるときには溌剌として意志的な絵をたくさん描いた。その一枚が「女の肖像」だ。十九歳の画学生ジャンヌと知り合って新たな希望と未来をなんとか信じようとした頃だ。この絵は通称マリーローランサンと言われている。首を真っ直ぐに立て黒い上着に白いブラウスが意志と清潔を現している。大きな瞳にはスポットまで当たってふっさりとした赤毛を短く刈り、結んだ唇にはルージュが引かれている。マリーは恋をしていた。相手はこんな男だ。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ われらの恋が流れる
わたしは思い出す 悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ鐘も鳴れ 月日は流れわたしは残る(堀口大学訳)
ご存じギヨームアポリネールである。幸福な女を見るのは気持ちが良い。真っ直ぐ拝観者を見つめて茶色の瞳が「どうしたの、あなたも幸せになったら」と言っている。これはモジリアニのメッセージだ。そして自分にも言い聞かせているのだ。どうして幸せはやってこないのだろう。酒を浴びる。麻薬を打つ。マリーの絵はどうしてそんなに夢見心地なんだ。どれもこれも朧気でその上、色まで飛んでいる。どこをとっても色と色との境が曖昧で暗い影さえ見えやしない。疑惑も対決も意味がない。あるのはひたすら同化だけ。一方絵の中のマリーはそんな童画を描く女には見えない。陰を持つ一筋縄ではゆかない男をいつも遠くから支持している「好きなようにしなさい」何でも私が引き受けてあげる。鞭を持たないライオン使いのように少しくらいの浮気だって意に介しない「いい詩を書きなさい」明晰な女だ。男は時にそんな女より黙ってついてきてくれるジャンヌのような女が愛しくなるのだ。マリーは美しい。ジッと見つめる瞳から目が離せない。
2008.06.03
伊達男といえばいなせな町衆姿の目元の涼しいさしずめ市川海老蔵を思い浮かべるが、近頃伊達女が賑々しい。十二年振りに世界四大大会より下部の国際テニス連盟の公式戦に三十七歳の伊達公子が帰ってきた。それだけでも想像を絶する出来事である。一度引退した選手が再びプロの世界に参戦することは余程の精神の強さがなければ成し遂げられない。過酷な試合日程をこなすだけの体力を維持しなければならないし、勿論技術の錬磨も一からやり直さなければならない。第一近頃は女子のスタミナも上がってラリーの球足に克って相手のコートにナイスショットをするにはスピードに耐える感覚を養わなければならない。私は野性的なジョンマッケンローが好きだったがスピードとパワーが桁違いに差があるので男子は熱が入らなかった。そのかわりクリスエバートの無表情で愛嬌も無いが緻密な試合運びが好きだった。それでも日曜にゆっくりとテレビで観戦している程度だったがフエデレーションカップで当時世界一だったシュテフイグラフに伊達が勝った時は思わず興奮した。ライジングショットを苦心の末編み出した伊達が世界のタイトルホルダーを打ち負かしたのだ。日本人はどうしても世界の壁を越えられない。肉食の長い歴史を持つ欧米人の筋肉とそれを駆使する肉体にどうしても日本人は適わない。持続力でも勝てない。その壁をどうしても越えたい。日本人の悲願なのである。それを伊達が超えた。熱いものがこみ上げてきた。年甲斐もなく四十歳を過ぎてテニススクールに通い出した。ゴルフもなかなか大変だったがテニスは更に困難を極めた。ネットを越して球をコートの中に入れなければならない。ゆるいフライでは打ち込まれてしまうのでスマッシュやカットを習得しなければ試合にならない。スポーツは困難を克服するゲームである。その工夫と努力と勝利の快感が困難に立ち向かう意志を育てる。終わった後の爽快な気分が又得難い。伊達は再びその戦いの場にたった。岐阜のカンガルー杯では惜しくも世界86位のタマリネタナスガーンに1-2で敗れたが、あと二大会に出場すれば全日本選手権に出場出来る。又再び全日本の舞台で快挙を期待してやまない。がんばれ、伊達
2008.05.20
ロスアンジェルスオリンピック無差別級準決勝で不運にも右足首を故障してしまった山下泰裕は、怪我を隠して決勝戦に臨んだ。相手はエジプトのモハメド・ラシュワンだが見事巨漢を倒して金メダルを獲得した。その山下氏は先頃開かれた国際柔道連盟の理事を再任されなかった。これで日本の役員は一人もいなくなった。嘉納治五郎が柔術から柔道を創設し、日本の武道として数々の名勝負を生んだ日本の国技も世界のスポーツとして新たなスタートを切ることになった。
一方、長い歴史を誇る相撲界に現役の横綱は一人の日本人もいない。それでも今までの外国人力士は古来のしきたりに従って相撲道を守ってきた。時代が変わっても厳しい修行を積み重ねて、狭い土俵で繰り広げられた力士達の数々の真剣な闘魂はフアンの脳裏に焼き付いて離れない。貴乃花が負傷を隠して武蔵丸と優勝を争った一番など横綱の意地があればこその名勝負であった。内舘牧子もその熱烈な観客の一人だがその相撲にかけた純情は半端ではない。遂には大学相撲部の監督にまで推挙される程の正真正銘の相撲フアンである。その内舘氏が横綱の朝青竜の振る舞いに噛み付いた。先の大阪場所では横綱同士の決戦で優勝したが二場所休場の汚名は消えていない。こともあろうに嘘の診断書を書いて貰って大事な地方巡業を怠けたうえにモンゴルに帰って嬉嬉としてサッカーに興じている姿がテレビで放映されたからである。内舘氏は横綱の品格に欠けると記者団に「引退」を語るほど怒り心頭に発していた。国民の賛否も新聞論調も内舘氏の意見に賛成する人の方が多かった。ところが日本相撲協会の対応が全く国民の関心に反して鈍かった。横綱の出処進退は角界最高位の権威として引退しかない。そうした進退に後がない絶対の存在として相撲道の美学が燦然と輝きその魅力は世界にも多くのフアンを生んできた。北の湖理事長も高砂親方も朝青竜の人気を当てにして全く腰が引けて相撲道を守り抜く覚悟も気力も欠けていた。ただ一人内舘牧子の純情だけが光り輝いていた。後に白鵬という素晴らしい横綱が誕生したが協会がこんな不甲斐なさではもはや相撲道の武威を保つことが出来ない。これ程単純な相撲が多くのフアンを惹き付けるのには荒々しい肉体に褌一つで一瞬の技に勝負を賭ける潔さにある。天保四年に両国回向院で始まった「回向院相撲記」には「相撲は神事であり礼儀作法が最も重んじられた」と書かれている。内舘氏にとっては朝青竜がその一点において綱の品格を汚したと譲らない。その純情が尊い。その頑固さが羨ましい。よくぞまわりじゅうが「もうその位で勘弁してやれば」といった空気にも負けないで、己の信念を貫いたか胸が熱くなる。そのまっしぐらさにも頭が下がる。男だって仕事への一途さは持っているがその底には冷徹な計算がある。しかし女性のまっしぐらには損得を超えた命がけがある。そこに男は痺れてしまう。そんな女性がいなくては人生寂しいばかりだ。朝青竜の人気に縋ってただ協会を維持しようとすればする程「相撲道」の歴史に汚点を残すことになる。この先この問題に相撲協会が対応を誤るようでは解散してちょんまげプロレスに参加した方がいっそ清々するだろう。
2008.04.11
啓蟄の日に梅が咲いた。それがアッという間に全開になってしまった。梅は寒気でまだ息が白い頃に咲くのがほのかな匂いと共にかぐわしいのだが近頃の季節はどこか味気ない。芍薬が土から芽を出し沈丁花が強い芳香を放っている。その頃になると待ち遠しい思いにかられる小さな花がある。花ニラだ。見たところ雑草のように見えるが花が咲くと可憐で、その楚々とした清潔さには気品が漂っている。山田洋次監督は吉永小百合を起用してそんな映画を作った。「母べえ」である。これは見た目よりも硬骨の映画である。日本人がなかなか取り上げない映画に山田洋次は挑戦した。それ程に今の世が退廃的で末世的であることの証拠として山田は作ったに違いない。何故なら権力と真正面に戦う主人公の家族を描いているからだ。欧米では「アラバマ物語」のように好んでヒーローとして取り上げるが、日本では国民がおとなしく従順だからどんなに世の中が矛盾に満ちていても権力に楯突く人間は好まれない。山田はようやくこの映画で国民のそうしたことなかれ主義に反対の声をあげた。そうしないといつまで経っても世の中が良くならないからだ。大好きな父親を、戦争に反対しただけで牢屋に閉じ込めた特別警察の人間に爪を立てて反抗したまだ小学校にも上がらない次女は、後に黒澤明のスクリプターとして数々の名作の制作現場に参加する野上照代さんである。軍国主義に反対する国民を有無を言わさず捕まえて戦争に駆り立てた政治家や実業家や軍隊は日本を遂に廃墟にしてしまった。その悪と戦った母と幼い二人の姉妹に山田はずっと寄り添って声援を送った。しかし父を待ち侘びて暮らす家族の元に父は遂に帰って来なかった。この切なさに涙を流さぬ者はいないだろう。<br
/>この映画はついこの間の太平洋戦争に負けた頃の時代を描いている。日本のどこにでもいるこうしたささやかな家族が幸せに暮らせる日々がいつまでも続いてくれるように心から祈りたい。
2008.3.16
平成二十年度の大学センター試験が行われた一月十九日北海道旭川の街は零下三十四、二度の寒気に閉じこめられた。試験場に向かう女子高生の睫毛が凍って白い庇となった。報道記者に答えていた学生が「間に合わない」と駈けだしていったお下げの髪に小雪が舞った。人生の新しい扉を開こうと挑戦する若者達に幸多かれと祈りたい。日本がスッポリと氷蔵のような冷気に閉じこめられた日、我が家の小さな庭に一輪の水仙が咲いた。いつもは師走の暮れ頃には咲いているのだが一ヶ月程遅れている。確実に地球規模で天候の異常さが深刻な事態となってきた。日本がダボス会議において温室効果ガス削減の規制を打ち出したのも人類がようやく共通の危機に直面していることの現れである。庶民にはこうした地球規模の話は運命のように受け入れるしかないが、その時は苦しまずに一瞬にして終わってほしいと願わずにはいられない。昔、群馬県の鬼押し出しに出かけたことがあるが江戸時代、天明三年に浅間山が噴火して一村が溶岩の下に埋まったという遺跡があった。そこには土がただ無表情に何層も堆積しているだけで人間の喜びや苦しみは跡形も無くただ虚しい風が吹くばかりだった。我が家の水仙は冷え枯れた風景に白い花弁を開いてスッキリと立っていた。風が吹くとその細い茎を頼りなげに傾けた。そんな一月の或る日、沖縄戦ひめゆり部隊の生存者の話を聞くことが出来た。三ヶ月に及ぶ米軍の苛烈な砲爆撃と火炎放射の間を逃げまどいながら日本軍の看護部隊として戦火を潜り生き延びた元沖縄高等師範女子部の吉村秀子さんである。八十二歳だった。「ひめゆり」とは沖縄高等師範女子部「おとひめ」と県立第一高等女学校「しらゆり」の校友誌を会わせて部隊名にしたと明かした。吉村さんは一点を見つめて寡黙な人であった。その重い口から糸を紡ぎ出すようにゆっくりと学友が次々と死んでいった地獄さながらの戦争を語った。そこにはただ死の匂いだけしかなかった。飛び散る血、苦しみ泣き叫ぶ兵士、腐った傷口をおびただしい蛆虫がひたすら食べ尽くす不気味な音、看護生は湿気が充満する狭い洞窟に傷ついた兵士の間を巡りながら薬を運び包帯を換え皮膚や筋肉に食い込んだ蛆虫を一匹ずつ取り除いて廻った。顔は煤だらけで頭の地肌には虱が食らいついて自分の身繕いをする暇も無かった。倒れた兵士は夜となく昼となくひっきりなしに「学生さん」「学生さん」と救いを求めてきた。吉村さんはその声に応える為に眠る間も無く駆けずり廻った。時には自分の食料も兵士に与えて空腹に耐えた。今日が何日かもわからなかった。そこには戦争を賛美する何ひとつもなかった。涙も涸れる地獄があるだけだった。生き残った今も、死んでいった多くの学友達の無念に毎日が引き裂かれるようだ、と語った吉村さんは「戦争はもうコリゴリです」と言って帰っていった。百五十糎にも満たない小さな躰だが凛として水仙のような後ろ姿だった。
2008.02.02
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