こくぶんじブログ 〜内田博司〜 本文へジャンプ

 こんな真冬に「蝉」である。作者はその後「夏の盛りの蝉のように」と題名を変えた。その蝉が何で大晦日の今なのか。平成二十六年に文学座代表となった加藤武がこの春に三越劇場で公演した吉永仁郎の同名作品でこの暮れに紀伊國屋演劇賞を受賞したからだ。しかも加藤演ずる葛飾北斎が幕開けに実際の大八車を引いて舞台に立った。生涯で九十三回の引っ越しを繰り返した北斎が娘のおえいと掛け合う。
 「お父っあん、もういくら引っ越しても根をあげないよ」
 「当たり前だ」
 加藤はそう言って客席に見栄を切る。加藤も八十五歳の晴れ姿である。俳優座の浜田寅彦、民芸の大滝秀治は既に亡く、加藤独り文楽座でこの春北斎を張った。艶もあり生気も漲って元気に役を果たしての受賞は日本中に威勢を払った。吉永仁郎の代表作を今年にぶつけての公演は正にアクチュアルな文学座のメッセージとなった。

 地方の五十代無職男が昵懇の女性の首を切り落としたり、非正規の若者が仕事のストレスで通りがかりの群衆にナイフを振るったり、資産家の高齢者を見つけては保険をかけさせて何人も薬物で殺す女性が現れたり平成の世の中は丁度この芝居の時代にピッタリと符合している。田沼意次のバブリーな賄賂政治から松平定信の寛政の改革、天保の大飢饉を経て水野忠邦が始めた天保の改革が失敗するなど六十年余りの江戸時代は、昭和バブルから平成の長い不況に喘ぐ日本の姿に酷似している。重税から田畑を放棄して流れ込んだ農民達で江戸は世界一の過密都市となった。消費者と化した武士も俸禄だけでは家計に足りず貨幣経済に巻き込まれて傘張り内職や刀さえ手放さなければ生きてゆけない時代だった。徳川幕府ですら家康の頃の蓄財は綱吉の頃には底を突き蔵元、札差からの借金でようやく命脈を保っていた。丁度、現在の政府が一千兆円を超える借金を抱えながらいまだに浮上の舵取りが出来ない事情に似ている。そんな中でしばしば幕府から出版の差し止めや手鎖などの懲罰を受けながらも必死にお上のお咎めを逃れながら北斎等は世界に名だたる絵画を残した。一生を好きな仕事に没頭して庶民と共に生き抜いた群像を吉永仁郎は闊達に書き切った。なかでも渡辺崋山は哀切である。蛮社の獄でたとえ蟄居を命ぜられても死なないで欲しかった。「鷹見泉石像」は西欧の肖像画にも比肩する名品である。富沢亜古のおえい、市井に生きるおきょうも色取りを添えた。金内喜久夫の北馬、国芳の中村彰男文学座全員が芝居を盛り上げた。舞台中に蝉の声が鳴きしきりやがて無人となって幕が下りる。打ちのめされながらも力の漲ってくる舞台であった。 
2014.12.31



公益施設のワークショップ

 平成26年10月7日、19日の二日間、Lホールと本多公民館で国分寺駅再開発に伴う公益施設のワークショップが行われた。いずれも二時間の市民を合わせて三十人足らずの集まりだから、これではどうひいき目に見ても充分とは言えない。しかし冷静にこの人数を?み締めなくてはいけない。市民の関心がこの程度であると言うことだ。行政の責任というのは簡単だ。勿論その通りだが市民もゼロベースでこの数値を?み締めなくてはいけない。真実は、日常の生活が公益施設のことまで足を運んで議論するゆとりがないと考えなくてはいけない。そのことを常に念頭に置いて、ここを出発点として行政も市民もシッカリと取り組んでゆかなくてはいけないのだろう。
 大事なことは国分寺駅北口に百bを超す高層建築物が二つも建つことが既に動かすことの出来ない事実であると言うことだ。しかも建設に当たっては市議会を賛成、反対で二分するような大激論が交わされての結果であることも忘れてはならない。その上での公益施設だから折角七百億円をかけての大工事に不十分な作り物であっては子々孫々に申し訳ないことになる。バブルの頃に全国に自治体が先を争って多目的ホールの建設ラッシュになったが、利用が伸びないまま閉館になったり民間の手に渡ったりした。その理由は施設に必要な設備が整っていないために使い物にならなかった例が多いのだ。
 そこで思い出す男が一人いる。都市開発部の藤原大周辺整備課長である。市議会に行くとこの男が特別委員会等でサンドバックのように議員の集中砲火を浴びている。議員は仕事だから攻め込むが藤原兄の感心するところは、議員が激高してくると尚更言葉を尽くして丁寧になるところだ。丁度、F1車のギアをヘヤピンでシフトするように調整するから観ていてソット応援したくなる。勿論そんなことは稀で普段は打たれっぱなしなのである。だから彼の日常で笑った顔を見たことがない。いつも井伏鱒二の「山椒魚」のように懸命に勉強をしている姿が浮かんでくる。彼の笑顔を早く見たいと思う。
 この駅前の大事業は市民が納得して貰えなくては意味がないが、それと同時にこの事業に黙々と取り組んでいる行政の職員にとっても苦労が報われて達成感の抱けるものにならなくては意味がない。今回のワークショップも次代を担う若い職員が市民と同じ数程参加してくれた。そのことが一番嬉しい。一ノ瀬政策経営課長も陣頭の指揮をとって汗をかいていた。市民も行政も一緒になって喜べるホールや施設になることを祈ってやまない。
2014.10.22




国分寺の匠たち(4)

 この夏は例年にも増して過酷な暑さが続いたと思ったら広島の土砂災害から御嶽山の噴火災害へと余りにも無防備な日本の姿を露呈してしまった。被災者の方々には痛ましいことでしたがこれ程防災と文化の劣悪さを示した例はない。有頂天を目指す前にもっと人間の暮らす足元を見極めて欲しいと国と関係者に願いたい。
 一方、わが郷土の匠たちは逞しい。相変わらず寡黙だが身体の隅々に神経を漲らせて仕事を仕上げてゆく。手足の筋肉が躍動して土塊や石、樹木が新しい自然の造形へと生まれ変わってゆく姿は、日本古来の伝統を現代へと息づかせる美の伝道師と言っても過言ではない。外構、造園を手がける須崎造園の匠達は皆な仕事中は機敏で手甲、脚絆がよく似合う。軽トラック一杯分の土ならひと息つく間に移動させてしまう。五十`の石なら道具を使って自在におさめ、二bを超す樹木はネコ車とバールでしなやかに姿を決めてしまう。それら一連の動作によどみがなく常に流れ動いているから見ていて小気味よい響きが伝わってくるのだ。日頃、ノロノロとかタラタラした仕事にうんざりしているから一層気持ちが良い。特に須崎さんには感心した。昼休みは会社へ帰って午後にはトラックに独りでやっとの石を何個も積み込んできて、使うのはその内の三個だけである。余分に用意して最適な石を選び取る。気に入らないともう一度資材置き場へ戻ってとにかく手間を惜しまないで納得するまでやる。その動作によどみがないからついつい見とれてしまう。こうして平凡な庭が自然な景色へと変貌する。心屈した時など静かに対面して飽きない。いい仕事は仕上がってから月日が経っても余韻が消えることはない。
2014.10.15




逸の城

 年明けの一月に遠藤を取り上げた。久し振りに日本人の活躍を期待していたのに夏場所では元気がなく3勝に終わった。土俵に這いつくばるような負け方は如何にも口惜しいことで福岡場所では再起を賭けて貰いたい。その不振に変わってまたまたマゲも結えない逸材が登場した。連日「満員御礼」の幕を垂らして場所を沸かしたのだ。
 逸の城である。モンゴルの草原に生きる遊牧民だったと聞いて日本にも歴史に足跡のない血が土俵に躍動している。先場所幕の内に上がったばかりで横綱を土に這わせ、二大関も圧倒した暴れ方は日本中を沸かせた。白鵬にはさすが適わなかったが横綱に次ぐ成績は観客のみならず全国のテレビにかじり付いて見守る角界フアンを唸らせた。いかつい風貌はさすが草原の彼方に遠く眼差しを投げる勇者に相応しい姿である。沈滞に喘ぐ日本に新風を吹き込んで欲しいものだ。遠藤も負けるな。 
2014.10.15



錦織圭

 平成二十六年九月七日、圭がアメリカから帰ってきた。日本中が二十四歳の若者を熱狂的に迎えた。私だって興奮した。半世紀以上前の国語の教科書に清水善造というテニス選手が載っていて、そのことを今でも覚えている。この時は彼の礼儀正しさが子供達への模範となっていた。しかし圭は全米オープンの決勝を戦ったのだ。これ程の快挙はない。残念ながら日頃勝ち越しているクロアチアのマリンチリッチに破れてしまったが、よくぞ日本人として名を挙げてくれた。この功績の一番は本人の努力もさることながら、なんと言ってもコーチのマイケルチャン氏に尽きるだろう。彼は全仏オープンを十七歳で優勝し、その経験を圭に注入してくれた。圭に頂点に立った者の孤独と陶酔と鍛錬をつぶさに伝え、圭はそして頂上への階段を上ったのだ。それでも届かなかった。道はまだ続く。少し休息を取ったら君は再び歩き出す。日本中の人々が君の戦う姿に魅了されるだろう。     ,
2014.09.26



薪能

 平成26年9月7日、国分寺市と姉妹都市を結んでいる新潟県佐渡市の第19回薪能が国分寺史跡特設会場で開かれた。前回は東北大震災により中止となったため実に四年振りの開催となった。会場には能舞台が既に出来上がっていて六百人以上の市民が今や遅しと待ち構えていた。その頃から雨がポツリポツリと顔に当たった。能楽の解説を聞いている頃には雨脚が照明にクッキリと照らされて宵闇に白く煙ったきた。
 狂言が始まり大名と太郎冠者が面白おかしく絡む頃には髪の毛から滴が垂れ、衣服から雨が滲みだしてきた。始めは濡れないうちに引き上げようか、と思案していたがもう遅かった。「蚊相撲」に引き込まれているうちにすっかりビショ濡れになってしまった。こうなったら「羽衣」もこのまま終いまで観てしまえと覚悟を決めた。その矢先に「中止」の声がかかった。気持ちが納得しなかった。
 佐渡市からは四十人からの人が能楽のために半年以上もこの日のために稽古を積んで待機しているのに、成果を市民に披露も出来ずに帰るのは如何にも口惜しいことではないか。市民だって折角観に来たのに途中から帰るのはどうにもやり切れない。ここまで進んでしまったら一方的に中止ではなく市民にも佐渡の演能者にも一応意向を聞くべきではなかったか。観たい人がいる限り演能者は必ず演ずるだろう。そうなれば熱狂的な歴史的宴になったことは間違いない。
 行政は雨だから仕方ないと考えていなかったか。職員には「職務に専念する」気概に欠けていなかったか。佐渡市の人もはるばる佐渡から来た以上、能楽をやり終えなかったら達成感がないまま帰ることになる。市民だって車での来場を禁止されていたから帰宅するまでには六百人がズブ濡れは免れない。私だって下着まで揺れてしまった。それを防ぐために私は当日午後2時からの第四小学校で行われた「事前講習」にまで出かけたのだ。何故ならテレビの予報では多摩地区は夕刻から雨が降ると放送していたからだ。会場で担当者に聞いたら「雨は降らない」から会場設営は進めているとの返事だった。それを信じて雨具の用意もなく夕刻には特設会場へ出かけたのだ。
 市制五十年を祝う薪能でもあるし、井沢市長も「幻想と幽玄の世界を存分に味わって欲しい」と挨拶したほどなのにこの始末である。案内状をよく見て貰いたい。そこには中止と言うことは一切書かれていない。必ず薪能を挙行して市民と共に幽玄の世界を満喫し、市制五十年を祝うという意志に貫かれていた。案内状には更にこう書いてあった。雨天の場合は第四小学校体育館で行います、と。行政の天気予報は何処からの情報か、テレビに目を通していれば当然薪能は体育館で行われ、全ての関係者と市民はまがりなりにも薪能を堪能することが出来たのだ。そうすれば後々まで雅な記憶として語り継ぐことが出来たのに、心ない結末で市制五十年は台無しとなってしまった。
2014.09.08



アンネの日記

 民芸の稽古場がある黒川は「扉を開けてミスターグリーン」以来だった。6年も経っていた。調布で相模原線に乗り換えるのを間違え開幕に間に合うか焦ってしまった。若葉台駅に下りると「アンネ…」の名札を持った劇団員が道の案内をしてくれて助かった。
 入口では顔見知りの俳優さんが出迎えてくれた。7月の暑い日盛りの中を劇団は団員をあげて稽古場公演を盛り上げ観客を待っていてくれた。満員の中を幕が開いた。
 アンネの話は日本で知らない人はいない。特にあと2ケ月も待てば連合軍が収容所を解放してくれたのに、その前に姉とチフスで死んでしまった。死体は掘った穴に次々と投げ込まれ誰の骨ともわからない。十五歳だった。このナチスの所業について世界は今でも問われている。こうしてユダヤ人が理由もなく子供も年寄りも無差別に六百万人も殺された。これ程知れ渡った話をしかも千七百回近くも公演するのだから人知れぬ技を仕込まねばならない。果たして丹野演出はどんな妙手を繰り出してくるのか。
 見終わって成る程と感心した。八木橋里沙の野放図なあどけなさが仕込みの第一だった。日記を読むと年に似合わない達者な人間観察と、大人も顔負けの状況判断を下せる怜悧なアンネを時に封印した。そして年相応の振る舞いで緊迫した状況に更に緊張を呼び起こして観客の想像を凍り付かせるアンネを八木橋が正に体当たりで演じた。当たり前の少女が巻き起こす行状と家族や同居人との息も出来ない緊迫な状況がナチスのおこなった非人道性をあぶり出してゆく。この日々を温和な人柄と果断な行動力を秘めて千葉茂則が過不足なく父親を演じた。八木橋は演出の意図を汲んでユニークなアンネを創出した。時には体育系のようなノリで背筋を目一杯伸ばすことによって、閉じ込められている屈託と少女の悲しさを表した。ことに男性にとって理解が及ばない女性の思春期の属性を大胆に表出して目を見張らせた。その一つ一つの表情がナチスの非人間性を照射してこの作品のメッセージを強く伝えることが出来た。まさに丹野演出の真骨頂であろう。
 出演した全ての役者さんも時と所を得て全体の芝居の流れを作った。どの一つが欠けても破綻してしまうところを最後まで支えきった。その力の源はやはり民芸という劇団が長い歴史の中で養ってきた家族のような団結の力である。一階ではこれまでの上演したアンネの全てのカタログとポスターが壁一面に張り出されていて、それを見るだけでも時間を忘れた。稽古場は人で溢れ団員は様々な場所でフォローしてくれた。アンネの芝居はそうした長くて強い人垣の中から生まれることを示してくれた。
2014.08.15



国分寺の匠たち(3)

 私は三十数年の間ずっと一人の女性理髪師に整髪してもらっていた。初めての時仕上げについて口論になったが了解しあった以後は任せ切りになった。髪の生え方は実はとても複雑であるらしい。それを全体として纏めるには櫛と鋏さばきがかかせない。彼女は器用ではないが何度も工夫して完成度を求め続けた。自分が納得するまで一年近くかかった。それからの三十年である。誰でも同じだろうが理髪屋に行くのは鬱陶しくなったから出かけるのである。従って手際よく仕上がってくれないと気分が晴れない。このスッキリ感を求めて私は理髪屋に行く。黙って台に座って世間話をしたり、眠くなって眠ってしまっても耳かきをして鼻毛を整え頭のマッサージを終えるとトントンと気持ちいい音が弾んで肩を揉んでくれる頃には、やんわりと体内から生気が蘇ってくる。最後にシトラスのコロンを振ると「はい、お待ちイ」とブラシで洋服の塵を払らい気持ちよく送り出してくれる。外へ出るといつも剃りあとに涼しい風が通り抜けた。そうやって過ごしてきた。
 それが七月の初め「彼女は先月で辞めました」と言われた。この前「あんたが来る以上頑張らなくちゃ」と言われたばかりなのに…。何の挨拶も交わせないままの別れとなった。世間は無常の風が吹いている。経済効率と不人情ばかりが横行している。
 彼女は九州熊本から集団就職で東京にやって来た。当時理容学校などはなく、店主の赤ん坊の子守や飯炊き、雑巾がけから修業が始まった。剃刀を使えるまで三年かかった。そうやって一筋に勤め上げて縁にも恵まれ二人の子供は既に働いて長女には孫も出来ている。今は亭主と交わす晩酌が一番の楽しみだと語っていた。
 最近、年収一千万以上の勤め人なら雇用打ち切りは自由になったらしいが、その風潮は見境なくどの業界にも吹き荒れているのだろうか。その人とはもう一度会いたい。江戸前のような気っ風のいい女性だった。生きるとはただブラブラと逸楽に身を任せることではなく、死が訪れるまで希望を持って働けることである。どうか新しい場所でもいつもの愛嬌と腕を振るっていてほしい。
2014.07.13



諸屯

  昨日の6月23日に69回目の大東亜戦争による沖縄戦終結式典が糸満市平和祈念公園で行われた。今回初めて「平和の礎」がある摩文仁の海岸線が海側から長いロングのカメラで撮影された。切り立った高い崖が延々と連なっている。沖縄はこの大戦で24万人の死者を出した。戦闘員ではないから戦死ではない。家族の4人に1人が犠牲になった。そのうちの大勢が追い詰められてこの崖から飛び降りて死んだ。そんな地獄のような記憶を刻んで昨日の沖縄が式典を挙行した。 丘には戦没者を刻んだ黒い御影石がつづら折りに幾重にも結ばれて建っている。遺族が戦没者の名前の前でしゃがみ込み泣き崩れていた。時は哀しみを薄れさせてはくれない。また新たに死者への思いは募るばかりだ。
 私は明らかに2日前に見た沖縄の踊りを思い出していた。それは一橋大学社会学部が読売新聞立川支局と共催した「再生と変容」講座中島由美教授が担当した琉球舞踊についてだった。比嘉いづみさんが演じた「諸屯」に私は身を乗り出して舞台を見つめた。ここ兼松講堂は一橋観世会の演能に何度も通い詰めた思い出の場所だった。中所宣夫さんという卒業生が能楽師となって在校生を指導していた。比嘉さんは面こそ付けていないが動きが非常に能との親近性を感じた。紅型衣裳の比嘉さんに明らかに風姿花伝の「姿幽玄ならんをうけたる達人とは申すべきや」と思わず引き込まれた。沖縄の連綿と続いた歴史の深さを今、胸に刻む思いがする。
 枕並たる夢のつれなさよ、月や西下て冬の夜半
 地勢的に隔てた歴史を綴ってきても沖縄は情緒として共通の感情的基盤の上に立脚していることが、この諸屯の舞踊に見いだすことが出来た。この精妙で静かなる踊りの奥に文化の同質性を発見することが出来て深い感動と喜びを味わった。そのことが合わせて昨日の式典の哀しみに、より深く寄り添うことが出来るのだと思った。ざわわ、ざわわ、ざわわ麦畑に連なる沖縄の哀しみはわが哀しみである。今迄全く考えたこともなかった鉱脈に突然出会うことの新鮮さと陶酔。これこそ生きていることの実感と文化の至福である。そして反戦平和への誓いである。
2014.06.24



鈴木空如

 AKB48のメンバーが東北被災地での握手会で「誰でもいいから殺してやる」と叫ぶ若者に鋸で切られる事件があった。静かに暮らしているものにとってはビックリするような話だが、現に自分達の隣で起きたことなのでシッカリと目を凝らさないといけない。
 AKBの晴れ晴れしい光景の影で絶望に息をひそめている闇の人達のいることも頭に入れておきたい。その上で日常の掃除をしたり買い物をしたり、子供の遊ぶ姿を眺めていたりして過ごす時間を大事なこととして愛おしんで欲しい。何気なく過ぎてゆくいつもの時間こそ人間の営みにとって一番大切なことであることも味わって欲しい。
 改築で家を離れられなかった三ヶ月を過ぎて真っ先に行ったのは上野の芸大美術館だった。法隆寺の壁画展が開かれていた。先々週の日曜美術館で放送された鈴木空如の模写が飾られていた。実物大の模写だからその大きさに圧倒される。この壁画を絵を傷めない暗さで何日間も写し取る作業は考えただけでも気が遠くなってくる。しかもその作業を三度も挑み続けた努力は仏画師では足りない、正に究極の悟りを得た菩提と呼ぶべきである。秋田大仙市で神童と呼ばれ、日清戦争にも従軍して戦争の悲惨をまのあたりにした鈴木氏は遅く芸大に進学し仏画に開眼した。
 それ以後は一切を投げ捨てて法隆寺の壁画模写に没頭する一生だった。これ程の人ならばいつでも名声をほしいままに出来るのに、そうした絵は一切描かなかった。近在の農家に頼まれて気安く描く程度であった。昭和二十四年法隆寺金堂が火災に遭い壁画も消失してしまった。国は威信を賭けて前田青邨、安田靫彦等当代を代表する画家を動員して再現作業にかかった。その時参考にされたのが鈴木空如の画であった。埋もれ、忘れられていても光あるものは必ず陽の目を見て輝くものである。    
2014.05.30   



国分寺の匠たち(2)

 世界でも名の知れた左官屋がいる。挟土秀平である。自ら「挟土組」を率いてその技はテレビにも放映されるほどだから人気絶頂である。採掘するための山を持ち、全国を仕事で駆け巡っている。しかし料亭や茶室、社寺、日本家屋がバブルに押されて注文が減った。変わってプレハブ住宅が大量に出回っていつのまにか家は建てられるのではなく組み立てる産業に変わってしまった。
 地震や災害、建築単価を考えると、その勢いは止まらない。賛成する人には多くの理屈がある。その通りだが逆らってみたくなる。昔読んだ谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」には日本人の感性が息ずいている。薬師寺の東塔を再建した西岡常一の話には天平の技術に舌を巻いている。天平と言えば国分寺市だっていささかの縁があるってもんではないですか。近頃こんな話がトンと忘れ去られていることにも腹が立つ。そのことに一言いちゃもんをつけてみたいのである。
 国分寺にも左官はいる。小峰工業である。この人も口をきかない。必要なことしか話さない。結果は仕事で見て欲しいとも言わない。だから仕事ぶりを見られることにもいい顔はしない。シャイなのである。それでも私はソット見たくなる。私にも一家言はある。プロは見られてなんぼのものである。それがプロの看板だ。目の前で鮮やかに決めてこそ技にシビれるのである。小峰さんの凄さは決められたことをキチンとこなすことである。事に我々の注文では小峰さんの技が表には見えてこないことだ。挟土さんの茶室なら壁として残るから何度でも見ることは出来る。しかし小峰さんの仕事は塗装の中に隠れてしまうのだ。それでも小峰さんは手を抜かない。壁は途中で止められないから日が暮れるとケーブルを伸ばして電気を付けて仕上げる。更に終わると道具を全て洗い流した上に、土間のモルタルの跡までキレイに拭い去る。洗った水は下水桝へ流す。門まで閉めて挨拶をして去ってゆく。私は去って行く車に改めて頭を下げた。
2014.05.30



国分寺の匠たち(1)

  国分寺市は今年の十一月で市制施行五十年を迎える。それで市は記念切手を発行した。十枚の切手を注意深く見ると、景観は別として人間の努力がなければ達成出来ないものばかりである。長い年月を経ても少しも色褪せずかえって輝きを増し人々の暮らしを支えてきた仕事である。人間の鍛え上げた匠の技が人をして驚嘆させるのである。今年ソチオリンピックで金メダルをとった羽生結弦は仙台市の目抜き通りに九万人を集めてパレードを行った。そんな冠を被ったきらびやかな若者ではないが、国分寺にもいぶし銀のような男たちがいる。
 この頃、テレビのゴールデンタイムはどこのチャンネルも口数の多い芸能人で溢れている。片時も休ませず笑いを取って隙を与えない。しかし今日の男はそんな傾向に真っ向から背を向けて生きている。とにかくぶつかっても口をきかない。ひたすら仕事に集中する。終えるまで身体を休めることがない。いつ見ても動いている。
 注文をきいてその実現に頭を巡らせるときだけ立ち止まって天を仰ぐ。ゆっくりとラークに火を点ける。深く吸い込んだ煙が勢いよく一直線に吐き出される。昔、アメリカに煙草の吸い方で人を痺れさせた俳優がいた。リチャードウイドマーク、いけ面じゃないが渋い男である。彼に似ている。
 職業は塗装業、名は水越敬治。私の注文は自宅の外装である。色にこだわりがあった。始めは弟の勝行氏と話を詰めていた。温厚な勝行氏は文句も言わず付き合ってくれた。近辺の何処にもなかった。国立、立川、府中と住宅街を見て回ったが見つからなかった。何度も議論した。日本塗料工業会のサンプルを探しても求める色は見つからなかった。足場を組んで破風や戸袋の格子に下塗りを始めた。その時、初めて敬治氏と挨拶を交わした。互いに頭を下げただけであった。工事で屋根に上った。瓦では重いし、本が詰まりすぎているので新建材に葺き替えた。その時ハッと気がついた。破風の下塗りが私の長い間求めていた色だった。弟さんとのやりとりを聞いていて敬治氏が試した色だった。私は思わず叫んでいた。「この色です」それから何日もかけて外装は完成した。色は難しい。しかし敬治氏の感性がその色を生み出してくれた。自分の技術を信じて打ち込んだ成果である。ずっと附いて仕事をしている田辺さんもきっと頼もしい職人になるだろう。国分寺が生み出した匠のひとりである。
2014.05.09



佐藤泰志

 朝日新聞地方版に大きな写真入りで佐藤泰志の紹介記事が載った。没後24年、彼を主人公とする映画「書くことの重さ」の自主上映と「そこのみにて光り輝く」の監督呉美保氏を交えてのトークショーだった。平成26年4月5日、国分寺駅Lホールは満員の盛況となった。新聞の影響はやはり大きかった。
 会場は団塊の世代が丁度同窓会に集まるような雰囲気で盛り上がった。それ程同世代の郷愁をそそるには理由があった。彼は函館の高校時代から地元の新聞の小説コンクールに入選し、閉塞の時代を切り開く新しい旗手として属目されていた。同じ時期に村上春樹も登場していたが佐藤は函館と東京を往復し何度も芥川賞の候補になりながら平成2年自から命を絶った。
 私は偶然国立の増田書店で同人誌の追悼号を手にとって彼が同じ町内に住んでいたことを知り買い求めた。タイトルは忘れたが借家を建てましてやっと自分で書斎を作り意気軒昂として部屋の窓から出入りする様子を活き活きと書いていた。上映会の為にその本を探したが東北大震災で安物の書架が損壊し、積み上げられた中から探し出すことは出来なかった。彼は二浪して國學院に入り中野に住んだ。結婚して八王子の団地に移り、一度だけ函館に帰った以外は全て国分寺で暮らし奥さんは三人の子供を抱えて苦闘した。
 この家族が国分寺で転転と居を移し、作家として自立しようともがきながら子供を育て生活に明け暮れる日々を思い浮かべる時、一抹の感傷なくしては彼を語れない。戦後日本のそれこそ狂瀾怒濤の浮き沈みは銃なき戦場と言っても過言ではなかった。その中で何故彼はこの国分寺に執着し生き続けそして倒れたか、を語れなければ彼を偲ぶよすがもない。彼は失意のさなかであっても国分寺を離れなかった。奥様も子供を抱えながら彼を支え続けた。この家族にとって国分寺は束の間であっても寄り添って生きる安息の地であった。それ程の思いを私達は国分寺に感じているだろうか。国分寺市も人々に生き甲斐の場を与えているだろうか。私達は誰でもそのことを考え、改善する努力を惜しんではならない。
2014.04.14



武蔵国分寺

 平成26年2月8日、東京は深夜から雪が降り出した。テレビはソチ冬季五輪を伝えていたが多摩地区では積雪三十糎を越え四十五年振りの大雪となった。この日、本多公民館では文化振興市民会議が長い間企画を練ってようやくその本番を迎えようとしていた。
 ところがこの大雪である。果たして聴衆は来てくれるだろうか。テレビでは電車の運休をテロップで流していた。車の途絶えた道路では雪が静かに降り積もるばかりであった。今日の「武蔵国分寺を語る」講演のチラシは二ヶ月も前から市の施設に配布されていた。 たとえ聴衆が一人であっても来てくれた方の為に講演は粛々と進めなくてはならない。物置の奥から長靴を引っ張り出して履くと家を出た。雪は傘の下から容赦なく顔をたたいた。積もった雪に足も取られた。日頃、車ばかり利用しているので歩き続けると腰が痛さで悲鳴を上げた。厚着した身体中が汗で滲んでくる。立ち止まっては休み、また歩むうちに準備のための集合時間に遅れてしまった。公民館に着いたときには仲間の努力によってすっかり会場は整っていた。聴衆は二名しかいなかった。やはり大雪の影響は隠せなかった。それでもポツポツと人はやって来た。井沢市長が挨拶をする頃には二十五名に達した。 この人達こそ地域に文化を育くむ希望である。私は胸が熱くなるのを感じた。
 講師の有吉重蔵さんも熱気を込めて語った。蓄えた知識を全て解き放つように早口に何度も資料の頁を前後させながら話した。千三百年も遡る奈良の時代に、この同じ場所に日本人は壮大な仏教文化を花咲かせたのである。そして類い稀な技術と救国済民の思想が忽然と誕生したのである。今を生きる私達に限りない夢と創造の翼を羽ばたかせて天平の文化は雪降り積もる午後の公民館に満ちあふれ会場は充分に酔いしれた。
 終了後講師に質問をした。国分寺僧寺は国家より水田十枚を下賜されたが尼寺は四十枚であった。その理由だったが講師は調査に及んでいないとのことだった。是非調べて頂きたいと思う。何故ならこの史実こそ国分寺市の新しいロマンを生み出す素地になると思うからである。その探求と育成は若い人々と一緒に花を咲かせてゆきたい。
2014.02.10


遠藤

 平成二十六年の大相撲初場所初日は珍しく「満員御礼」の札が下がった。近年、サッカー等の人気におされ何処の場所も中日過ぎても空席が目立って相撲フアンにはとても寂しかった。久し振りに日本人力士、稀勢の里の横綱誕生を待ち望んでいるのに、肝腎のところで下位の力士にあっけなく転がされて欲求不満が高まっていた。
 そこへ異例の早さで幕内に昇進してきた遠藤の人気が急上昇してきた。紫のフンドシ、豊かな体躯、すずしい目元に男の色気が漂っていた。その上、若さに似合わない程のゆったりした身のこなしがなおさら人の気をそそられる。花のある力士が登場して両国界隈は一段と華やいだ。初日こそ敗れたがその後勝ち星を重ねて四日目など宝富士に土俵際まで押し込まれて、アワヤという時に一瞬の変わり身で俵を伝って下手投げで逆転してしまう離れ業を見せた。館内は沸き返り感嘆のどよめきで観客を酔わせてしまった。まだマゲの結えない総髪の若者に館内は惜しみない拍手を送った。
 長い不況と未曾有の災害に見舞われた日本にやっと笑顔を取り戻せそうな新年の幸先良い幕開けとなりそうだ。遠藤よ、怪我に気を付けて日本に希望を与えておくれ。
2014.01.16


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