こくぶんじブログ 〜内田博司〜 本文へジャンプ
2010年の終わりに

 今年は百三十年ぶりの猛暑と言われるほど地球全体がヒートアップしてすっかり生態系が狂ってしまった。日本も例外ではなかった。夜中に何度も冷房を点けたり消したりして寝苦しい夜がそのまま朝からの熱気へと続いた。まるで鉄板で焙られている毎日だった。そして秋も束の間、寒気の冬へと突入して既に山間部では生活物資を運ぶ長距離トラックが、三十時間以上も雪の中で立ち往生しているニュースが入って来る。狂おしいことは季節だけではなかった。延坪島への突然の北朝鮮の攻撃。尖閣湾への中国漁船突入事件。更に十二月二十九日の朝日新聞第一面には高齢者ではなく、三十九歳の青年の飢餓死を伝えている。これら事件の背後に通底するものは、決して異なる要因ではないことは明白だ。社会の混迷を解きほぐし希望へと束ねる指導者が欠落しているのだ。こうして慌ただしく一年は暮れようとしている。国民は日々の生活の立て直しに懸命である。地球上の六十七億の人々が毎日の糧に感謝し、そして隣人にも平穏と充足に祈りを捧げる日々であることを願わずにはいられない。信心深い人々は神社に参詣し、キリストやイスラムの人々は教会へと足を運ぶであろう。私はこの時、一人の夢想家のことを思い浮かべる。ジョンレノンである。彼はビートルズを解散した翌年「イマジン」を発表した。自らピアノを弾きドラムはアランホワイト、ベースはクラウスホワマンである。ジョンは誰でもわかりやすい平易な詩で夢を語った。複雑に絡み合った世界の政治と経済の解決の為には、歌で語る夢など、一発の弾丸にも値しない重さであろう。だが、この歌には激しい動乱に明け暮れる人々の胸の奥にも鳴り響く切なる願いが込められている。この神髄に耳を傾けよう。
 思い描いておくれ、全ての人々がこの世界を分かち合っていると。
 夢だと想うかい。僕は一人じゃない、皆んなが加わればきっと世界は一つになる。
ジョンは1980年12月8日ニューヨークで凶弾に倒れた。四十歳であった。人はクリスマスにはホワイトクリスマスを歌ったであろう。新年にはソットこの歌を口ずさんで一つの夢を語ろうではないか。
2010.12.29



ヒーローの死(2)

 前回、スチーブマックインのことを書いてまだ、書き足りないと思った。その時は考えが纏まらずひとまず筆を置いた。そして考えた。このままでは壁にピンナップで留めるだけになってしまうと思った。誰でもこれで充分と思って死ぬ人は数えるほどしかいない筈だ。ことにマックインは死を覚悟していたとしても、一人では答を出しかねる問題を抱えていたに違いないと私は思った。その答を出すためにマックインはこの最後の映画を作ったのだ。彼はこの映画「トムホーン」に私財をなげうった。プロジューサーも兼ねて良い作品にしたかったと思うが、心ある監督、例えばノーマンジュイソンやサムペキンパとはマックイン自身の不行跡がたたって疎遠になっていた。第一、この素材そのものが興行的に成功するとは思えないし、特に彼はトムの生涯をリアルに描くことにこだわって名のある監督とは意見が合わなかったに違いない。では何故、マックインはそれ程このトムに拘ったのか。そこにマックインのメッセージがある。監督も二流だし、脚本も良い出来ではなかった。それでもマックインはこの映画を完成させてこの世との別れとしたかったのだ。彼は既に重度の中皮腫に冒されていて余命はなかったのだ。映画の終盤で牢獄から逃亡するシーンがあるが、彼はなぜスタントマンを使わなかったのだろうか。いつも颯爽と銀幕に登場して駈け去ってゆくマックインが、この時は息を切らして今にもへたり込んでしまう様子をカメラが執拗に追い続けている。マックイン、分かったからもう良いよ、と思わず叫びたいほどこのシーンは続いた。日頃の見慣れたマックインからは想像出来ない程痛々しい画面だった。中皮腫は彼が若い無名時代に職を求めて転転としていた頃に、建築現場や工場労働の中でアスベストを吸い続けた結果背負ってしまった病気である。マックインにはそうした消しがたい時代があったのだ。トムホーンは大酋長のジェロニモを捕まえてアメリカ建国のヒーローになったが、マックインは科学文明の発展の中で倒れた。マックインことトムホーンは一言の愚痴も言わず、文明の栄華をむさぼる後世の社会に疎外されて死刑台にのぼった。その場面もマックインは執拗にリアルに徹して画面に納めた。気道を塞がれ縊死するトムホーンの手から何かがこぼれて落ちた。カメラが近づくと鷹の爪だった。マックインはそこまで撮り続けると別れを告げた。マックインよ、あなたのことを私達はいつまでも忘れない。,,
2010.12.13



ヒーローの死(1)

 NHKでスチーブマックインの没後30年を記念する映画が上映された。今更ながら年月の早さに驚かされる。「大脱走」ではオートバイで逃走するシーンや、脱走する為に地域の情報を得ようと、何度も脱走を試みては捕まり独房に入れられる場面が思い出される。ヒーローは大衆の熱い支持無くしては生まれないが、ことにアメリカが熱狂して迎えるヒーローは、男臭くて真っ直ぐな性格が好まれる。両親が離婚して、それぞれ再婚したいずれの家庭からもマックインは疎外される。行き場の失った少年のたどり着く場所は非行の世界しかなかった。少年院から出所しても定職には就けずフトした偶然から映画の世界に入り、そこでメキメキ頭角を現してゆく。「拳銃無宿」で人気を得て「荒野の七人」ではユルブリンナー等スターに伍してマックインのイメージを確実に印象づけた。「ブリット」「華麗なる賭け」「砲艦サンパブロ」「パピヨン」「タワーリングインヘルノ」とスターダムにのし上がって見事カリスマの一人となった。
 マックインはこの世で欲しいものの全てを手に入れた。あとはハリウッドに歴史を刻むことだけが残った。ハンフリーボガードが「カサブランカ」「ケイン号の反乱」マーロンブランドが「波止場」「ゴッドフアーザー」グレゴリイペックが「ローマの休日」「大いなる西部」と映画史を飾る作品に名を残した。マックインもたとえ作品は小粒だが自らの生き様を通して社会を逆照射することに意気を燃やした。そこに他の誰も真似の出来ない彼の真骨頂がある。一つはノーマンジュイソンと組んだ「シンシナチイキッド」がある。女と平凡に暮らす生活を望みながらも、どうしてもエドワードGロビンソン演ずるポーカーの名人を自分の腕で倒したいと夢見るマックインの真率な青春をサッチモやジャズの旋律をバックに鮮烈に描き出した見事な映画である。もう一本はハードボイルドの迫力を画面にたたきつけるサムペキンパの「ゲッタウエイ」である。ギャングの容赦のない生き様に自ら活路を求めて挑んでゆく痛快なアクションがメキシコ国境の渇いた風土の中に展開する。金だけが目当ての男達の欲望が炸裂し、しのぎを削り命を奪い合う。歯医者夫婦を脅して妻を奪い、車で連れ回し遂には死に至らしめるギョロ目のアルレッチエリが出て来るだけで画面が凍り付く。その殺伐さから一転して国境を目の前にして農民とボロトラックの売買を巡ってやりとりする画面が何とも泣かせるのである。土地に根を生やした農民と束の間共感して気を取り直し新天地を目指す若夫婦との別れのシーンが実にほのぼのとして心和むのである。ペキンパとマックインが作り上げた苦み走った人間賛歌であった。30年も経つのにまだ鮮やかに頭に残っているのはマックインのまとっている印象が権威や名誉に媚びず、いつまでも若々しく一途だからである。
2010.12.01


彼岸花とカズ

  金木犀は例年より一ヶ月も遅く十月三日の朝、新聞を取りに玄関を開けたら芳香が鼻を打った。懐かしく心和む香りを一年ぶりに味わった。年月の早さがとりわけ身に沁みる。暑かった今年の夏の苦しさを金木犀の花の香りが爽やかにぬぐい去ってくれた。国分寺の市花はサツキだが、この町には金木犀が一番似合うようだ。秋になると町の何処へ行っても匂いが追いかけてくる。それ程、市内のご家庭には金木犀を植えている家が多い。ただ、花そのものは若い娘さんが髪に飾っても華やぐ程の優雅さはなく、その点はサツキには及ばない。けれども遠い旅先でフト金木犀の香りに出会うと、我が町のどの家にも塀越しにのぞいている金木犀の姿を思い出すのだ。こうして秋は急速に深まり冬の足音が聞こえてくる。その中でも、もう一つ嬉しいことがあった。待ち望んでいた彼岸花が今年も思いがけなく咲いたのだ。庭の何処にでも咲くわけではなく、何故か咲く場所は梅とイチイの樹の僅かな陽だまりと決まっていた。暑さでうっかり見過ごしていた間に、一位の場所は万両が育ってしまい生まれ出る余地がなかった。梅の根元に一輪だけ咲いた。すっくと立って朱色の花弁を放射状に散らす姿が何ともいとおしい。華麗だが繊細で、そこのあわいが妙に人を惹き付ける。そういえばこの間中央線の車内で三浦知良に会った。制服をキチンと身につけた小学生達に囲まれて人懐こく相手をしていた。我々では面倒くさくて逃げ出したくなるが、カズは笑顔でいつまでも応対していた。少し前のリーグ線で長い距離のフリーキックを直接ゴールさせ久し振りにカズ・ダンスを満員の観客に披露したばかりだが、いい年になっても絵になる姿は見ていても気持ちが良い。国立駅の北口で下りたが、カズもゆっくりと人混みに消えていった。一陣の爽やかな風が吹いた。
2010.10.23,


鳥刺しと切腹

 九月十五日、朝起きたら涼しい風が吹いていた。しばらく外気に身をさらして風の過ぎてゆく様を存分に味わった。一時は熱中症で一日百人を超す死者が出る程の今年(平成二十二年)の夏もようやく終わったのか。それでも金木犀はまだ咲く気配もない。これ程身体にこたえる苦しい夏はなかった。しみじみと風の心地よさが胸に沁みた。いつからこんなことになってしまったのか。今の世の中、どんな狂乱が起きるか分からない不気味さが漂っている。寝苦しい夜を過ごして朝刊に目を通すまで安心できない。そんな時、ずっと頭から離れない映画があった。原作は藤沢周平だが、脚本は制作を兼ねた伊藤秀裕で題名は「必死剣鳥刺し」という。監督は平山秀幸で「愛を乞う人」のヒリヒリするような愛の痛みを静かに見つめた人が、今度はこの世の邪悪に身体をぶつけて正義を貫こうとする男の物語を描いている。平山は殺陣師の久世浩と組んで主人公がどうやって悪玉の城代岸部一徳を倒すか、殺陣の絵柄を決めるのに相当悩んだに違いない。しかし構想がまとまるとすさまじいクライマックスと対照的に、最初のシーンを静かな能の舞台から始めたのは流石だ。画面にはこれから始まる劇の人物が全て登場していた。それ程にこの映画の殺陣は時代劇の持つ勧善懲悪への渇仰を満たしてくれた。社会に漲る不満を政治が何一つ解決できずにいるから、国民はやり場のない気持ちを溜め込んで毎日イライラして生きている。ことに若者の間に広がる閉塞感は深刻だ。そんな時に時代劇は何時も国民に一服の爽快感を用意してくれる。歴史に残る決闘のシーンは黒澤明の椿三十郎と室戸半兵衛が峠で対峙するシーンが有名だが「鳥刺し」の豊川悦司演ずる兼見三左衛門も、自らの死をもって巨悪を退治するシーンは見応えがあった。ささやかな恋もちりばめて心が和んでくる。黒沢映画と違って限られた予算の中で美術もよく武家の暮らしを再現した。それにしてもこうした映画を見るにつけ思い出されるのは遙か昔に見た小林正樹監督の「切腹」である。今、見ても哀切さと決闘のすさまじさに心が震えてくる。妻子を抱えて毎日の職探しに疲れ果てた浪人が、思いあまって武家の玄関先で切腹の介錯を願い出る石浜朗。血で汚されることを嫌って、僅かな銀を与えて引き取って貰う武家の足元を見ての苦肉の思いつきである。天下泰平の徳川政権であったが武士もそこまでしなくては生きることが出来ない程窮乏していた。今の時代とよく似ている。そんな武士がある日、いつもどうりに武家の玄関先に立って口上を述べた。やがて出てきた勤番が伝えた言葉は「太平の世に見上げた心根、この場で見事に本懐を遂げよ」驚いたのは浪人、まさか本気とは。その日の糧にも困る身の上で仕方なく刀も質草に入れている。腰に差しているのは只の竹光である。その事を承知の上で武家は切腹を許したのだ。竹では幾らなんでも腹は切れない。浪人はむごたらしい姿で戸板に乗せられ父親の元に返ってきた。勤番は切れぬ竹光で如何にして死んだかを詳細に語って帰って行った。一部始終を聞いた父親は数日後、その武家の玄関先で切腹を願い出た。武家では又来たか、と同じく許可を与えた。その後の父親が、妻子の為に武士の恥も誇りも捨てて死んでいった哀れな息子の無念を晴らす為に狂人となって家中の武士を皆殺しにする仲代達矢に変な話だが胸のすくような痛快感と苦しみを味わった。身を削るようなこの頃のせち辛さは、何かの拍子に血が飛んでもおかしくない程に緊迫感に満ちている。政府は小手先のバラ撒きではなく下々の暮らしに光を当てるような政策を実行して欲しいと願わずにはいられない。
2010.09.22


白鵬の涙

  七月二十五日に終わった大相撲名古屋場所は異例ずくめの開催となり勧進相撲としての屋台骨を揺るがす事態となった。この渦中にあって現役力士は日本中が 注目するなかで全員が連日力戦を果たし、残念ながら満員御礼の垂れ幕が下りる日は少なかったが、充分相撲フアンを満足させる場所になった。ことに横綱白鵬は立場上下位力士にやすやすとやられるようでは国技としての体面も損なう恐れがある為、緊張はありありと毎日の対戦に見て取れた。それが十五戦全勝に繋がり、尚かつ三場所連続の全勝という新記録まで打ち立てた。誠に見事である。優勝旗を受け取る時の涙は、そうやってやっと仕事を完遂出来た安堵が、天皇賜杯を受け取れなかった淋しさにつながったことと思う。白鵬始め、豊真将も高見盛も鶴竜もよくぞ戦い真価を発揮した。この呆れ果てた壊滅の嵐の中での現役力士の努力こそ報われなければならない。それに反して財団として相撲を経営している協会の姿勢は甚だ心許ないものであった。危機に直面して身を処することが使命であるのに、その処断が全く自らに対して甘いのである。これでは協会の存続を自ら狭めているとしか思えない。同時に協会を監督する文部科学省の責任も、極めて重いものであり、今後の去就を見定めねばならない。そうした体たらくに呆れたのか本日、八月三日になって天皇陛下が異例の行動を起こした。この度の白鵬の精進に対し宮内庁を通してねぎらいとお祝いの言葉を発したのである。この事実は天皇自らが白鵬の千秋楽時の涙を見て、人間として心を動かされたからである。こうした人間的な発露を何故、関係機関が天皇より先に行動として示されなかったのか残念でならない。琴光喜の解雇もはなはだ重すぎる処置であった。その決定を下すならまず、理事長以下役員全員が職を辞するのが先であるし、そうした責任も取れない協会なら解体して出直さなければならない事態である。白鵬の涙を協会は重く受け取めなくてはならない。最後に天皇には御自身の賜杯なのだから、改めて白鵬に御下賜下さるようお願いする次第であります。
2010.08.03


井上ひさし逝く

  二0一0年、四月から三ヶ月間新国立劇場で歴史の検証を掲げて井上ひさしの東京裁判三部作の上演を発表した。私は三部とも予約をした。その最初の公演時に井上ひさしの訃報が届いたのである。四月九日のことだった。立て続けに「ムサシ」「組曲虐殺」を発表したばかりで、これから油がのりきって更に書き続けて行くだろうと期待していた矢先だった。心にポッカリ穴が開いてしまって暫く何も手がつかない状態になってしまった。空虚感に侵され、気がつくと溜息が出た。井上ひさしの作劇法にはブレヒトの三文オペラも下敷きにあるが、学生の頃に浅草フランス座に通って身につけた渥美清や関敬六の、庶民に親しまれた軽演劇の精神が心棒のように通っている。だから簡単そうに見えて誰にも真似が出来ない。五月になって劇作家協会が座、高円寺の公演中の扉座の舞台装置を脇に片付けて椅子を並べ、二十五人の劇作家が思い思いに井上作品からセリフを拾って井上さんに贈る言葉とした。正面には大きな人懐こい井上さんの写真が飾られ、生前の声が流された。井上さんの娘さんも来てくれた。ホールには上演したポスターが壁一杯に張られ、私は一枚ずつ見て歩いた。小曽根真がピアノを弾き、最期の舞台となった「組曲虐殺」の一シーンを演じた役者と共に再現した。簡素だがいつも通りの飾らない仕方で、井上ひさしと接したぬくもりを作家達が、それぞれに懐かしんだ追悼式だった。六月に入って新国立劇場は最後の「夢の痂」の上演となった。日本語の形式の中に、日本人の精神構造を暴いた警告の芝居は観客に重く、そして深い感動を与えた。ホールの片隅に記帳台が置かれていた。それは最初から置かれていたが最後になって私は昨年五月にお会いした時のお詫びをした。井上さんは大の煙草好きで、家族の反対があっても止められなかった。作品の構想を練る時にはどうしても煙草の助けを借りなければ、良い案が浮かばないと語っていた。私は煙草を喫んでこれだけの作品が書けるなら、ドンドン吸ってドンドン良い作品を書いて下さいと言ってしまった。その年の秋に肺ガンになった。なんてことを言ってしまったのだろうと悔やんだ。私も少しでも井上さんの遺志を継がなければ、と思った。
2010.07.28



木村拓也死す

  四月二日、広島球場での広島戦の前に今年から内野守備走塁コーチとなった巨人の木村拓也はシートノック中に突然倒れた。試合が始まった途中に膝を落として倒れてゆく姿が放映された。そして七日午前三時二十二分くも膜下出血で死去した。三十七歳の若い盛りであった。その日、甲子園の阪神戦の前に巨人ナインは彼の現役最後の守備位置に円陣を組んで黙祷を捧げた。原監督が「拓也ッ」と叫ぶとコーチ陣も続き全員が涙に暮れた。この日、セパ全球団の選手が各地の球場で試合前に黙祷を捧げた。試合は巨人が全員片袖に喪章を付けて戦い脇屋、坂本のヒットと今年始めての小笠原の本塁打と西村の先発参年半ぶりの好投で3対0で勝った。決してスター選手ではなかった。日本ハム、広島と渡り平成十八年小久保が故障した為、二軍で汗をかいている時巨人から声を掛けられた。その間にスイッチヒッターにもなり守備の全ポジションをこなせる選手になっていた。プロの世界で人一倍の努力がなければ果たせない根性の男であった。思い出すのは昨年九月四日のヤクルト戦である。延長に入り三人の捕手を使い切って後は負けるか、引き分けしか無くなった絶対の場面で木村がマスクを被った。十二回裏の1イニングに三人の投手を上手に捌いて木村は引き分けにした試合である。あの時三振にしたボールを握りベンチに戻って全員から手荒い祝福を受けたときの一寸少年のような得意げな顔が忘れられない。毎日が忙しく過ぎ去ってゆくこの頃だけど、そんな時でもキラリと輝く星のように人々の胸に灯を点して去ってゆく人がいる。こうした時間は人間のどんなに立派な歴史の一ページよりも心温まる瞬間である。残された家族の方々は戦って倒れた夫であり父を誇りに思いこれからの荒波の人生を精一杯生き抜いていただきたい。
2010.04.15

おとうと

 平成二十一年に映画の市川崑監督が亡くなった。敬愛していた山田洋次監督は好きだった市川の「おとうと」へのオマージュとして「おとうと」を撮った。内容は全く違う。今、人気絶頂の笑福亭鶴瓶と吉永小百合を姉弟にして綴るホームドラマである。寅さんを含めた山田がずっと撮り続ける日本の家族の物語である。山田が家族に注ぐ目線が私達が暮らしている日々の実感に縫い合わさった様に重なるのでつい共感させられてしまう。早くに夫を亡くした吉永が薬局を営みながら一人娘の蒼井優と義母と暮らしている。やっと娘に良縁が授かり医師との結婚式の当日、音信不通だった弟が大阪から駆けつけてくる。和やかな会場が酒乱になった弟のために惨憺たる有様になって、その事も影響して両家の間にヒビが入りやがて娘は離婚して戻ってきてしまう。弟もそれきり姿をくらませてようやく一家にも平穏な生活が訪れた頃、弟と暮らしていたという女性が現れて貸したお金の工面をしてくれないかと相談に来る。金額は女一人の経営には重くのしかかる金額だったが、女性を不憫に思った吉永は預金を下ろして全額支払ってあげた。もうこれでコリゴリだと思っていた矢先弟が訪ねてきた。カッとなった吉永は娘共々大喧嘩となり弟をたたき出してしまう。そんなグウタラな弟を鶴瓶は地を活かして演じた。下地は前作「母べえ」のシチュエイションに似ていて吉永と鶴瓶の息のあった雰囲気が山田監督のイメージにあったものと思われる。結末は大阪の私設ホスピスで末期ガンに犯されて苦しむ弟を姉が訪ねていって看取ることになるのだが、山田はちゃんとそこに未来を託すシーンを用意してエンドにしている。出戻った蒼井にずっと好きだったと告白する電気工の加瀬亮が、たとえ嫌いだった叔父にあたる弟でも最後だからと娘の背中を押すように軽自動車に乗せて東名高速を病院迄送ってゆくシーンを重ねる。山田監督の人間を見つめる優しさが溢れた作品になった。物語の随所にはめ込まれている加藤治子の義母やホスピスの夫婦や近所の隣人達の何処にでもいる人々を配置して山田はその一人一人に人間らしい存在感を与えている。その世界に触れて観客は日常の憂さを洗い流して家路につく。山田は映画を通して感動を人々の胸に落としてくれた。ついでに今迄忘れていた市川崑監督の「おとうと」も思い出した。小説に没頭している父と一日中神の前に懺悔して暮らす母の間に立って暮らしを守る岸恵子の姉と、そんな姉に甘えて家庭の忿懣を悪事にぶつけて親を困らせる弟の川口浩の物語である。二人が醸し出す姉弟愛を白黒の画面に切なく哀しく市川は刻んだ。良い映画は生きている限り人々の記憶に残って消えない。
2010.03.03



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