平成二十一年十二月十八日、朝日の夕刊にジェニフアージョウンズの訃報が載った。九十歳だった。「慕情」の主題歌は世界中で歌われた。「終着駅」は全世界の若者を虜にした。激しい雑踏のローマ中央駅に発車のベルが高鳴る。人妻のジェニフアーはモンゴメリークリフトにちぎれる程の思いでささやく。「あなたなら又、恋は出来るわ」クリフトは激しく叫ぶ。「恋なんて、もう二度としない」切なくゆがむジェニフアー。ホームに打ち倒れるクリフト。ビットリオデシーカは「自転車泥棒」のイタリアンリアリズムで遂げられない恋の行方を描いた。まるで敗戦国イタリアのもどかしい復興を見つめるように。そんな時、ジェニフアーのつつましく気品のある顔立ちが一瞬の情念に身を賭けようとする思いと、人妻故に断念する強さに引き裂かれる女性の美しさと輝かしさを見事に演じきった。どの新聞を見てもこの弐作品のことは書いていた。だが私にはもっと強く忘れられない映画がある。田舎からロンドンに働きに出た女性が都会のきらびやかさに目を奪われている時にフト助けてくれたローレンスオリビエを忘れられなくなる。その後成功して大女優になってもジェニフアーはオリビエを探し続けた。一途な気持ちを持ち続ける女性のひたむきな愛を全身で演ずるジェニフアーに暗い映画館の中で私の心は揺らぐ。女の愛しさにクラクラめまいがする。やがて再会した時、ローレンスは零落の淵にいた。「もう何処にも行かないで」幸せに胸一杯のジェニフアーはポンド紙幣でふくらんだ財布をあずけて舞台に上がってゆく。オリビエはやがて十シリングの小銭だけを手にして楽屋を出て行く。仕立ての良い洋服の裾は綻び、シャツの襟は汚れていた。霧の深いロンドンに咲いた一つの恋をウイリアムワイラーは静かに描いた。もうこんな女性はいなく、こんな男はもっといない。月日は流れ、ジェニフアーは逝き、そして私の人生も…
2009.12.21
昨年まで私は国立劇場、さいたま芸術劇場及び主要劇団の会員になって年間四十本以上の芝居を観てきた。その為には予備知識や戯曲を読んだり書き留めたりの作業で疲労困憊の状態になった。その中で一番こたえたことは観た芝居が全て良かったとは思えないことだった。役者やスタッフの人達が手を抜いたりしているわけではないので尚更こたえた。一番痛感することは芸術の難しさに尽きる。自身の身体がへばったこともあるが、今年から厳選することにした。それでも文学座のアトリエの会だけは外せなかった。それは一本の外れもないことだった。これは驚異の出来事である。勿論、文学座そのもののバックアップもある。会員に対して研究生の卒業公演に招待してくれる。この公演も楽しみだ。新人達が熱を上げて取り組んでいる姿が、こちらに迫ってきて芝居を観るワクワク感を教えてくれる。合間には座員有志の久保田万太郎や平田オリザをシッカリと満喫させてくれる。身の置き処がないこの頃の悲痛な世間から逃れて暫く文学座へ行って世の中から隔絶されたいのと、一番明確なことはこの世界に通底するメッセージを芝居を通してキッチリと観客に手渡してくれることがあるからである。先日も若手による発表会があったので出かけた。新装なった文学座の稽古場公演である。「出口なし」は実存主義を掲げて世界に登場したサルトルの出世作である。この世に人間は偶然によって登場し、また出会いによって死んでゆくのが人間の存在だが、生きることは自由の刑に処せられているのと同じことなのだ、と彼の哲学は語る。何者でもない人間は自らの営為によって自らを造ってゆかなければならない。同性愛者のイネスが出征を忌避して銃殺されたガルサンに言う「人間の死ぬのは何時も早すぎるか、遅すぎるかよ、でも一生はちゃんとケリがついてそこにあるのよ。一本、線が引かれたからには総決算をしなけりゃ。あんたはあんたの一生以外の何でもないのよ」(伊吹武彦訳)日本は今、長い保守体制からようやく新しい世界に向かって歩き出そうとしている。しかし、その出発は稚拙で覚束ない。見ていて歯がゆいくらいだがこれが唯一の現実だ。まさに「出口なし」である。私達は手探りでも他人が決めた価値によってではなく、自らが自らの価値を創造し世界を構築してゆかなければならない。文学座のアトリエは岸田國士等が造った当時のままである。木組みの構造に白い漆喰の壁が館の懐かしい雰囲気を醸し出している。此処で数々の芝居に心をときめかした。まだ杉村春子の暮らした部屋も残っていたりして昔の信濃町が蘇ってくる。時代は平成になって久しいが、人々の心はそれぞれの思いを刻みながらずっと流れてゆく。
2009.11.26
平成21年11月9日、中国でも人気の高いアイドル歌手、酒井法子(38歳)が夫に誘われた覚醒剤取締法違反により東京地裁で懲役一年六ヶ月、猶予三年の判決を受けた。身体には入れ墨まで入れていた。もし渋谷の路上で捕まった夫に出会っていなかったら、もっとまっとうな人生を送れたのではないか、と本人の責任は当然だが小さな子供のことを考えると胸が詰まった。覚醒剤はそれ程に依存性が高く心身を蝕む恐ろしい薬物であることを思い知るべきである。私も今年の夏、薬ではないが同じような苦しい思いを体験した。仕事の締め切りに追われてアイデアが浮かばず机に座っても何も書くことが出来ない。記録書を読んだり音楽を聴いたり、紅茶を飲んだりしまいには手に汗が流れてジットしていられずに散歩に出る。ジリジリと太陽に灼かれて頭が燃え立ってくる。普段、仕事の構想のヒントは人により様々だが私の場合は散歩が一番効果的だ。スポーツクラブでベルトに乗り汗をかいている時とか、泳ぎ終わってプールの端で息を整えている時もよく思いつくのだが、今回は少しずつ頭がいっぱいになってきて徹夜が続いた。遂に不眠症に陥った。頭の内側に血液が充満してしまって構想の活路を求めて七転八倒した。体力が続かず仕方なく医院へ行った。睡眠薬を処方して貰ったが締め切りまでに仕事を終えなくては話にならない。疲労の限界で薬を飲み、少し休んでは頭を絞り抜いて又休む繰り返しの中でとうとう締め切りが来てしまった。マラソンならばゴールにたどり着けばとりあえず達成感はあるが、仕事というものはゴールに着いてやっと評価のスタート台に立っただけだから、本当の勝負はこれからなのである。悔いは一杯ある。やはり時間に追われて充分練り込めなかったこととか、全体に渉っての修整が出来なかったこととか、しかし今はとりあえず仕事を完結させたので気持ちの中にはいささかの安堵感はあった。これでやっと身体を休めることが出来るか、とおもったのだが血液が充満してしまった頭はなかなか静まってはくれなかった。心身が戻らなくなってしまった。睡眠薬が手放せなくなった。それが夏の間中続いてやっと金木犀の香りが街に流れる頃になって落ち着いてきた。実にきつい経験だった。人間から眠りを奪われる辛さは命と同じく代え難い。そんな思いがひしひしとした。そのような間でも、この仕事が終わったらどうしても行きたいところがあった。それがまだ身体が回復しないのに終了の期日が迫ってきたので出かけた。近代美術館のゴーギャン展である。私はゴッホに愛着が深いのでどうしてもゴーギャンを好きになれなかった。ゴーギャンに会わなかったらゴッホはまだあんな発作的な死に方をしないでも済んだのに、と思うからである。しかし運命は二人を引き合わせてしまった。それ故にゴーギャンの「我々はどこから…」が日本に来たのでどうしても見ておきたいと思った。ゴッホは今、私が経験している狂乱と激情を常に抱えながら絵筆を握った魂の画家である。しかし「我々は…」を観てゴーギャンもまた激情を抱えて生きた魂の画家であった、と認めないわけにはゆかない。二人は対極にいながら人生を送った。その境界にあるのはキリスト教である。ゴーギャンはカソリックの神学系の学校に入っている。そこで神に仕える者達の腐敗と欺瞞に直面して宗教に対して懐疑的になってしまった。ゴッホは神学大学まで目指すが教学的な体制についてゆけない。伝道教習所も終了できなかったが牧師の父を見習って神の道を生きることにいささかも疑いはなかった。ただゴッホは集団としての組織に順応できなかった。純真な魂と芸術的情熱がそうした枠組みに収まりきれなかったのだ。二人は別々の道から神の存在を意識していた。ゴッホは自らの生命と引き換えに、そしてゴーギャンは背徳を通して出会った時から二人の中の聖性を火花のように感じ取っていた。ゴーギャンはそれ故に互いは別々の道を行くことを善しと考え、ゴッホはそんなゴーギャンだからこそ二人はかならず手を取り合わなければならないと信じてアルルでの共同生活を熱望した。結果は事実の示すとおりだが、耳切り事件があった後にゴッホはサンレミの病院に行くことになる。その時の「糸杉と星の道」を絵入りでゴーギャン宛に手紙を書いている。手紙はどれだけゴーギャンに傷つけられたかわからないのにゴーギャンの才能を信じて、真情溢れる気持ちを伝えて涙を誘う。その時まだゴーギャンは「我々は…」を書いてはいなかった。だがゴッホはいずれこの大作を描くことを見通していたのだ。ゴーギャンはタヒチでの制作を世に問う為、凱旋したような意気込みでパリに乗り込み個展を開くが、結果は惨憺たる失敗に終わった。ゴーギャンは失望し、もう二度と文明の世界には戻らないと決意してタヒチに戻る。ゴーギャンの真骨頂はここから始まる。放埒と遊蕩の限りを尽くしたゴーギャンにはゴッホとは別の意味で人生の苦難が降りかかる。デンマークの妻から長女十九歳の死を伝える手紙が来た。芸術の華はそうした耐え難い運命に直面して敢然と立ち向かう者にしか戴冠されない。妻でさえ拒絶したのに人生で最も強く画家ゴーギャンを信じてくれた娘の死は、如何に剛直なゴーギャンであってもこの世を生き難くしたに違いない。ゴーギャンは死を覚悟して小麦袋を何袋も繋ぎ合わせて四米に近いキャンバスに自らの遺言を描き残した。梅毒と貧窮と孤絶した中にあってもゴーギャンは新聞を発行し教会に信仰の回復を訴えた。絵の左上に書き記した「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」はもはや一枚の絵ではない。全世界の人々に伝える警世の黙示録なのである。死にきれなかったゴーギャンは疲労が回復すると再び大作に挑んだ。ようやくゴーギャンにもこの世を愛おしむ静かな時間が訪れた。もはや画面には力はないが淋派の屏風のように背景を金色に染めて「タヒチ牧歌」を描いた。脳裏に浮かぶ楽園をそのまま映したゴーギャンはこの後タヒチから千八百キロも離れたヒバオア島に移り十四歳の少女と暮らして弐年後モルヒネを大量に服用して死去。五十四歳だった。
参考文献 ゴーギャン展カタログ(二千九年)
ゴッホ展カタログ (千九百九十五年)
ゴッホの手紙 岩波書店
2009.11.12
一位と貝塚息吹が庭の広さを越えて育った。植物にしろ生き物の成長には人間社会の暮らしの規矩などはるかに超えてしまうことに目を見張る思いがする。梯子を掛けて天辺を壱米ばかり切り落として庭先に積んだままにしておいた。雨が降った朝、庭に出て何となく一位の天辺を手に取った。日が経っているのに緑は全く失われていない。鋸で枝を全部払った。年月の重さが切り枝に漲っている。十五年程前に切った天辺が現れた。これを植えた時が思い出された。今でも千利休に執心している。彼の辞世に魅せられたからだが「南方録」を読んで茶道も学んだ。その頃、仕事で名古屋へ行った折休暇を取って如庵に出かけた。造ったのは信長の弟織田長益だから利休には主人筋にあたるのだが本能寺の変後、戦国時代を生き抜くことは至難の業であったろう。茶道の心得が身を助けたに違いないが同じ茶道に縁を持ったが故に古田織部などは切腹せねばならなかった。勿論秀吉も家康も信長の縁者という遠慮があったことは確かで、結句「有楽流」を興し建仁寺の塔頭正伝院に如庵を造った。壁の腰紙に暦を貼って風流とした。利休の侘びに連なるが大名の血が利休とは別派を建てる考えに繋がった。その意気込みが建屋に伝わっている。国宝になった由縁であろう。記念に一位で作った棗を買ってきた。漆をかけず木肌の美しさに引き込まれる。友人に話したら長野から一位の苗を送ってくれた。それが今日の一位である。一位と名の付くほどだから棗を見ていると木目を見ていて飽きない。如庵は三井財閥に買い取られて一時東京に移築されていたが、今は木曽川のほとりに命脈を保っている。木曽川といえばすぐ側に織田信康が造った犬山城が今も当時のままの姿で別名白帝城と呼ばれる程の姿で時代を見下ろしている。天守閣に上ると絶景が広がった。きざはしに後の城主となった成瀬家の縁の者が座っていた。歴史の転変を感ずるに相応しい場所である。一位の天辺は暫く応接間に置いて飽きるまで眺めているつもりだ。
2009.10.26
東京も町田市まで来ると空が広がって雑木林があちこちに点在している。日程が開いていたので気まぐれに電車に乗った。前日、偶然見たテレビで小さなパン工房を紹介していた。まだ若い女性がフトした機縁でパンに魅せられパン工場へ働きに出た。三年働いて自分の店を持った。料理学校などに行かずに実践で身につけようと考える意気込みが素晴らしいと思った。生き方に迷いがない。これならたとえ挫折や障害にぶつかったとしても、何とか工夫して乗り越えてゆくに違いない。途中から見たので生い立ちとか、どうやってパンに巡り会ったのかも分からなかったがインタビューに答える様子は自然で好感が持てた。自分が日夜心を砕いて取り組んでいる問題に触れているからだと思った。私が普段観る女優さんの卵もみんな同じ匂いがする。それは何故か。自分を賭けているからだ。この世に安全と保障されるものは何もないけれど、まず自分から身を投げてみるのだ。大事なことは結果じゃない。自分の歩く人生の道を自分で証を立ててゆくのだ。それこそが青春の特権である。老人の色あせた講釈を聞くよりはまず一歩自分の足を前へ出すことが大事である。若いパン工房のオーナーの少し不遜だけれどひたむきな一途さに魅せられて訪ねてみた。店は丘陵の中の住宅街の奥にあった。住家を改造して如何にも若い女性が精一杯夢を詰め込んだ可愛らしいお店であった。ドアを開けると陳列棚には商品がなかった。きっとテレビを見てお客さんが急増したに違いなかった。もう少し経つとパンが焼き上がるというので一旦外へ出た。道の突き当たりに丘が延びていた。雑木林に道を開いて散歩が出来るようになっていた。登り切ると視界がひらけて住宅が点在していた。秋の空が遠くまで見えた。静かな午後の落ちる林の中を歩いた。やがて来た道を再び戻ってお店のドアを開けた。棚には出来上がったばかりのパンがズラリと並んでいた。その全ての種類を買い求めて家路についた。パンはどれも香ばしく皮はパリパリと音を立てた。若いオーナーの工夫は試行を繰り返してイーストを使わずにブドウを発酵させてパンを作ることに成功したことだった。モチモチとして歯ごたえがあった。説明するオーナーの挑むような顔を思い出した。店の名は「チクテベーカリー」といった。由来を聞くのを忘れてしまったが味わいのある一日だった。
2009.10.16
今年の春に大きくなりすぎた梅の樹を剪定した。豊後梅なので今迄たくさんの梅干しを我が家にもたらしてくれた。狭いので泣く泣く枝を払らう選択をしなければならなかった。そのお陰で庭に陽の入る空間が広がった。この場所は座敷からは見えないところなので、忙しさに紛れるとついつい時季を過ぎてしまうことがあった。クチナシもそんな事情で蝶の幼虫に葉を食べ尽くされてしまったことがあった。今年も忘れずに庭へ降りて見に行った。そうしたらなんと待ち焦がれていた彼岸花が久方ぶりに咲いていた。それも4本も鮮やかな朱い花を咲かせていた。思わず近寄って魅入った。どんな花も美しいが、この花ほど繊細で優美な姿はない。まるでバレリーナのようだ。おだやかな秋の陽だまりにスックと立っている。清々しい気分が漂ってくる。人はこの花を縁起が悪いという人もいる。なぜだか分からない。彼岸の頃に咲くからかもしれない。時代は変わったのだ。「おくりびと」が世界で賞賛されたように、この花もきっと冥土の門口で見送る「おくり花」なのだ。輪廻転生。日本人には脈々と巡り巡って再び逢える機縁を大事にする民族の心がある。
2009.10.02
蝉時雨が聞こえる。こんな日は汗が噴き出るような暑い日に決まっている。昔はスダレを下げて陽を遮り、檜の桶に氷柱を立ててこれが結構のどかで優雅な消夏法になった。この頃の夏は温度も高く湿度もあり、そして何より執拗なことがやり切れない。空調機に頼り切るのもなんとなく負ける気がして腹立たしい。こんな時の鬱屈を解消する方法は人それぞれに特技があるはずだ。私は新聞のコラムをまとめて読むのを、精神と身体のキレを取り戻す妙薬にしている。八月二十一日の日本経済新聞文化欄に小倉遊亀の「半夏生」とその絵を選んだ丸山健二のコラムが載っている。丸山は若くして書いた小説で芥川賞を取り、今は長野県の広大な屋敷の庭造りを通して人生を語る男の典型を具現している作家だ。絵が又素晴らしい。百歳を超えても絵筆を握った小倉の類い稀な稚気を感じさせる一枚だ。黄色地の画面に鮮やかな色絵の花瓶を描いたが花が挿されていない。傍らに半夏生が飾り花まで克明に描かれている。勿論、半夏生は茶花だから侘びの器が引き立つのに、あえて色絵の花瓶を置いて二つともそれぞれの高みに張り付けにした。小倉の如意がキラリと光る。丸山もそこに目を付けて半夏生を語っている。生きるのに不確かなこの時代に我が道を行く丸山の真骨頂が現れている。だが待てよ。そこまで語るなら七月に書いて欲しかった。暑さしのぎの戯れに私が七月に書いた「半夏生」を載せておこう。
半夏生(はんげしょう)
七月二日、近在に所用があり車で出かけた。旧街道は道の両側に軒が迫りいまだに明治の建物が残っていて懐かしい。寺の境内では仮舞台を組んで祭り提灯が下げられ法被姿の若衆が夜の支度にせわしげに働いている。今日は暦で言えば半夏生。昔なら忙しい農作業も一段落して、村中が盆踊りに興ずる頃であるが、現代では四六時中働きづめで息をする暇もない。やはり人生は季節を感じて生きる方が人間らしい。今頃、野山には若葉を白く染め上げて半夏生が美しく群生している。
2009.08.22
若田光一さんを乗せたエンデバーは無事七月三十一日午後十時四十三分ケネデイ宇宙センターに帰還した。到着してもすぐには歓迎の式典にはならない。大気圏に再突入した時の発熱で機体が冷めるまでハッチは開けられない。冷めてもまだ若田さんは出てこられない。まず医師が機内に乗り込んで若田さんが、地球の重力の環境に適性が残っているかチェックをするのだ。そして月が変わった八月一日に若田さんは元気な姿を見せた。若田さんの活躍はその都度テレビで見ることが出来た。四ヶ月を越える宇宙での生活で水の補給は困難を極めるそうだ。今迄は随時、水その他の補給の為に飛ばす運搬の費用が二十二億円もかかる。コップ一杯が四十万円に相当するので、今回初めて尿を再生して水に変える装置を組み込んだ。その水を若田さんが飲む場面が公開された。この画面を見て私はマクベスのように眠りを奪われた。既に中東では石油を売って海水から水を得る装置が日常化している。アフリカ、中国奥地では森林が砂漠化している。北極では氷河が激しい勢いで消滅している結果、海水面が上昇して千六百以上の島で構成されるインドネシアは領土保全対策が追いつかない。地球におけるこうした環境破壊の深刻な実状への対策として若田さんの使命は対置していることは明らかだ。宇宙空間の探査、開発の他に実は地球の悲鳴を背負って飛び立っているのである。その故に若田さんが一身に受けるリスクは計り知れない。朝日新聞の取材はその事に言及している。無重量状態では身体に負荷がかからないから骨量は骨粗鬆症の患者の約十倍の速度で減少する。回復には骨折や尿路結石の危険をはらみながらも、宇宙滞在期間の倍以上の時間があれば元通りになるそうだからまず安心と言える。問題は今回の若田さんが滞在中に浴びた放射線量の多さである。日常生活で普通の人間が浴びる放射線量は年間約弐_シーベルトに対し、若田さんは今回九〇_シーベルトを被爆したとされている。この量は白内障やガン発病の危険があることを示しているそうだ。全世界の注目を浴びる不屈の使命遂行の裏に、こうした危険をも背負って果たされていることに、私達は改めて思いを深くしなければならないと考えます。その若田さんが帰還後の記者会見で語られた感想は更に心に沁みる言葉であったと思います「ハッチが開いて空港の草の匂いをかいだ時、地球に戻ってきたことを痛感した」と。この文章を書き終わった日、日本では先の大戦で死んだ三百十万の人々に対する六十四年目の戦没者祈念式典が天皇、皇后両陛下も参列されて日本武道館でしめやかに行われた。暑い日だった。
2009.08.16
前回「これこそ文化」として取り上げたスーザンさんのことが、ずっと気になっていた。勝敗の行方についてではない。十組が出場した決勝では惜しくも準優勝であったことは衛星放送で観ていた。視聴者の投票によらずとも優勝した十人の若者が踊るダンスの方が視覚的な魅惑と、陶酔において際だっていた。だからといってスーザンさんが見劣りしたとは思っていない。このオーデションに世界中から一億五千万人以上の視聴があった事実こそ文化の大きな成果だと思っている。私の心配したことは、そのことではない。長い間、田舎の静かな環境で母親の介護に明け暮れ、猫と教会の合唱に慰めを得ていた四十八歳の独身女性が、突然の脚光を浴びたことによって、生活が一変してしまったことである。その為精神的な変調により入院したという小さな新聞記事を読んだ。私には想像も付かない現象が、彼女を襲ったことは理解出来る。その後の生活振りについては図書館に行く度に各紙の新聞に目を通しているが、全く掲載されていない。あの、少し肥った幸福そのもののスーザンさんから、心を痛めている姿など到底思い浮かべたくない光景だ。「夢破れて」の深々とした歌声が今も耳元に残っている。日本から遙か地球の裏側の、一人の女性の運命のことなど、激しい勢いで変わる世界にとっては虫を殺す程にも値しないことかも知れない。しかし、全世界の飛行機や車が止まっても、一人の女性の運命の方が大事、と考えることこそ文化である。スーザンさん、早く平穏な日々を取り戻して、再びその優しい歌声を届けてくれることを極東の一日本人が心配していたことを覚えていて下さい。
2009.07.16
地球は狭くなった。通信の発達は見知らぬ国を近づけ、見慣れぬ顔を友人にする。その根底にあるのは人間に対する共感である。その媒体こそ文化というものだ。誰が一体、異国の普通のオバサンにフト立ち止まり、耳を傾けるだろうか。それが先月、実際に起きたのである。場所も始めて聞く名前だ。スコットランドのウエストロージアン市、といってもその海外ニュースは町の様子まで写していないので詳細はわからない。そのオバサンの名はスーザンボイル、四十七歳である。教会の聖歌隊で歌うのを楽しみに、長い間病床の母親を介護して暮らしていた。九人兄弟の末っ子だというが、何で生計を立てていたのか定かではない。二年前に、その母親が死に、おそらく生きる目標を何処に於いて良いのかスーザンは迷ったに違いない。
そして思い切って自分を変えてみることに挑戦したのだ。好きな歌を歌うために音楽オーデションに応募した。その時の映像は克明に放送された。おそらく司会者は、普段出てくる出場者とは全く場違いの人が出てきたので、失礼にならない程度に多少カラカイ気味だ。髪も普段のままだし、衣服もタンスの奥から引っ張り出した一張羅のようだが、すこし流行遅れのようだ。顔も化粧をしていないように見えた。観客も司会者も全く期待している様子はなく、早く済ませて欲しいような素振りで歌い出しの合図を送った。スーザンが歌い出してからの観客と司会者の表情が面白い。正にドラマだ。まるで百八十度転換してただ驚いている顔が大写しになった。全ての人が見事な声量と、節回しに酔って動けない。歌い終わった後、会場は拍手と呼び笛とブラボーの叫びで埋め尽くされた。曲はレ・ミゼラブルから「夢破れて」だった。スーザンの夢はここから始まったのだ。彼女に対するアクセスは遂に五千万件を越えたという。人は決して夢を諦めてはいけない。人生はその為にある。
2009.05.19
桜が満開になった今でもまだWBCの興奮が一向に醒めない。世界中の人々がスポーツにおける真剣勝負の醍醐味を味わったことだろう。日頃野球などに興味を示さなかった人達までが寂しい心をぶつけるようにテレビにかじりついた。決勝の五回裏遂に同点に追いつかれて更に七番高永民の打球は左前を抜ければ三塁打になるような球を内川は魔術師のように捕球しただけでなくすばやく二塁に送って中島が間一髪アウトにした。これがなければ流れは完全に韓国に行ってしまった必殺の守備術であり、その勢いは延長線に入った第一打者としても塁に出て勝運を日本にもたらした陰の功労者である。今回は次々とヒーローが生まれてチーム一丸の姿が特に目に付いた。韓国も最後まで粘り強く勝利への執念を見せて延長に入ったときの視聴率は四十%を超えたと言われている。実に日本人の二人に一人に近い人が見ていた勘定になる。あの時塁上に走者をおいて林昌勇がイチローを敬遠しなかったことが韓国で話題になったが、実況中のゲストだった清原は最も真率な感想を述べていた「韓国としても日本一のイチローを倒さなければ世界一になる意味がないでしょう」と。近頃は勝負にこだわる余り敬遠策が最も最上の戦術だと高校野球の松井以来定着しているがフアンにとっては真っ向勝負こそプロの醍醐味であることを忘れないで欲しい。それでこそ今回のWBCは価値があったし世界に真剣勝負の素晴らしさを伝える最高のメッセージとなった。
2009.04.06
平成二十一年の春先は異変の幕開きとなった。浅間山の噴火で東京は粉塵が熱く積もった。三月に入って初雪はやっと先が見えないほどのみぞれになったが、午後にはすっかり止んで底冷えの風が吹いた。年の暮れの日比谷公園には解雇された派遣労働者が社宅すら追い出されてテント村には行列を作って炊きだしの食料に空腹を満たす姿がテレビに映し出された。かと思うと世界一のトヨタが突然工場を休業する程の赤字だったというのも驚きで、人々の心は先の見えない不安で一杯になった。いつもなら千両の朱い実で一杯になる我が家でも今年は二株にしか実がつかなかった。それで寂しい庭におだまきを買ってきた。山深い野辺の奥間にソット咲く可憐な花に詩人萩原朔太郎を偲ぶためだ。朔太郎は昭和四年に「夜汽車」(新潮社「日本詩人全集」)を書いた。この年はニューヨークの銀行破産から二年後で不況は世界中に伝播し、失業者が巷にあふれ日本では娘達が家族の犠牲となって身売りが全国に広がった。丁度、今の日本と同じような雰囲気の中で朔太郎にはもっと辛い出来事が起きていた。「夜汽車」の後半を載せておこう。
まだ山科は過ぎずや
空気まくらの口金をゆるめて
そっと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きていたるおだまきの花
2009.03.15
懐かしい映画を見た。「大いなる西部」である。この映画をどうしても私の感動したままに伝えようとするとどうしても原稿用紙が十枚を超えてしまった。それ以上短くならないのだ。何度も書き直して一ヶ月が経ってしまった。そして気がついた。他の人が見たときにその人の感動を妨げてはいけない。そう思って書くのを止めにした。そして改めて書いたのがこの原稿である。とにかく男が全身を傾けて胸をいっぱいにしてまっしぐらに女に向かってゆく話なのだ。ダスチンホフマンの「卒業」なんてものじゃない。青春は所詮そんなものだろう。それでいいじゃないか。恋の映画なら古今百に余る。その中でも飛び切りのいい映画なのだ。舞台は吸い込まれるようなテキサスの大平原。腕一本で生き抜く西部にやってくる東部の男の物語。男臭さがムンムンはじける腕力と意地の世界なのに本当の撃ち合いは老牧場主の果たし合いの時しかでてこない珍しい西部劇なのである。そこでの生活が広い大地に繰り広げられる。真の男らしさとは何か。生きるとは何か。愛とは何かを鮮烈に観客にたたきつける映画に欠かせないのは名花である。西部劇の女性には不思議と先生役が多い。この先生がジーンシモンズである。後に「暴力教室」の監督リチャードブルックスと結婚した時は渋谷の今はイタリア通りになっている中華街の「営業中」の小さな看板を軒並み裏返して「休業日」に変えてしまったのを覚えている。睨み合う二つの牧場の争いがエスカレートして遂にテリル将軍はハナシー牧場の牛に水を飲ませない作戦に出た。水は牛にとって生死に関わる重大事である。ハナシーは水場の持ち主である先生を人質にとって対抗した。東部のグレゴリーペックは丸腰で先生を取り返しに行く。谷間の道には大勢の牧童が銃を持って待ち構えている「こんな危険な所へ何しに来た」いぶかるハナシーにペックは先生を見る。先生は必死に「私が勝手に遊びに来ただけ」と訴える。そう言わないとペックを撃つとハナシーの長男バックに脅されているのだ。ペックは静かに馬を下りると先生に「一緒に街に帰ろう」隙を見てバックに飛びかかるペック。凄絶な男と男の格闘。劣勢になったバックは拳銃を抜く。ハナシーは言う「お前も男らしく勝負しろ」一発しか出ない貴族の決闘用の拳銃。先生は「止めて」と叫ぶが二人は引き下がらない。そこでもバックは先に引き金を引いてしまうが弾はペックの額をかすめただけだ。今度はペックの番だ。バックは近くの仲間の拳銃を奪おうとして遂に父親に撃ち殺されてしまう「ルールを守れと言ったはずだぞ」男達のギリギリの生き様をこの映画は丹念に拾い上げて真の人間とは何かを提示してゆく。監督はウイリアムワイラー。あの「ローマの休日」を作って世界中の若者を虜にした人だ。あの恋物語を作れる人だからこんな凄い映画を作れるのだ。あの時は小さかったから長い間オードリーヘップバーンは本当の王女様と思っていた。その前には剛直の男カークダグラスの「探偵物語」お相手は憂いのエレノアパーカー。ニューヨークの21分署のしがない刑事が性格的な頑固さから罪を暴こうとする余り愛する妻の過去に触れて苦しむ切なくも哀しい恋の物語。人生は一度しかない。しかし人はもう一度やり直しが出来たら、と思うことが何度あることだろう。そんな何処にでもある等身大の人間に寄り添って人生の哀歓を綴るワイラーは我らの親しき隣人とも言うべき人であろう。
2009.02.26
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