こくぶんじブログ 〜内田博司〜 本文へジャンプ
蜷川幸雄

 新聞を見て又か、と思った。始まった高齢化社会にむけて新聞は話題を探しているのだ。蜷川幸雄が五十五歳以上の高齢者を集めてさいたま市にゴールドシアターを作った。千人を超える応募があり蜷川は五十六人を選らび最高齢は八十一歳だった。そして二度目の公演を東京の新聞は大々的に取り上げた。演目の「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」を見てやっぱり蜷川はお茶を濁しているのでは、と考えた。この芝居は初演時に一つの伝説を作った。画期的であった。その時蜷川は「俺達に戯曲として残ったり再演出来るような作品はいらない。その時にしか成り立たない演劇を作ろうというのが俺達の合い言葉だ」と言い切った。今、蜷川は桐朋学園短大学長でもあり国から文化功労者として年金も貰っている。あまつさえ英国の勲章まで肩に掛けている。こうゆう肩書の一杯ついた大人は単純に二種類に分けられる。名誉を鼻にかけて胡散臭く信用出来ない人間と、僅かだがソクラテスに似て自慢したくなるような人間だ。蜷川程になれば目をつぶっても一芝居位ぶちあげることは造作もない程の経験を積んでいる。技術ばかりで心のない芝居程腹立たしいものはない。費やした時間を返せと言いたくなる。<br /> 昔の蜷川は良かった。自分を一度も疑がわず頭は良くて理路整然としているが心のない批評家の劇評を載せた大新聞に、たった一枚の壁新聞を劇場に掲げて抗議をしてみたり、木造アパートのせめぎあう露地で子供を背負って洗濯物を干している若い母親から「背中の子供が大きくなったら又芝居を観に行くから」と言われて「こうゆう女の人の思いを芝居は掬い上げることが出来なければ」と考える蜷川を私は好きだった。今の暖衣飽食した蜷川に、そんな昔の志があるのだろうか。気になって初日に財団に電話をしてみたら前売りは全て完売して、当日売りも二枚位しかないと言われた。当日売りなんてとてもそんな元気は無い。やっぱり縁がなかったのだ、と諦めた。ところが千秋楽の日にどうしても断れない用事を頼まれていて、その日の仕事が出来ないことを思い出した。用事は朝の内に済んだ。一日空いた。この日を無駄にするのはもったいない、と思った。さいたまへ行ってみようか、と考えた。しかし片道二時間もかけて当日売りがたったの二枚では無駄足になるのは目に見えている。失望して帰ることになったら落胆は大きすぎると思った。でも、この日を外したら蜷川の正体がわからない。私は意を決して物置から釣り用の折り畳み椅子をリュックにねじ込んで出発した。初台の国立劇場でも当日売りは大理石の床に座るしかない。ましてこれから行けば三時間近く待たなければならない。腰をやられてしまう。何回も乗り継いで到着したら二番目に並ぶことが出来た。しかもちゃんと椅子まで用意してあったし、この日は特別に当日売りを十五人に増やしたと係員は言った。椅子はとても助かった。その上待っていても飽きなかった。廊下を行き来する関係者の顔が仕事への緊張感に溢れていた。働いて輝いている姿を久し振りに目の前にした。私も愉快になった。これが人間の社会というものだ。そのうち蜷川本人が現れた。ニコニコして役者の卵だろうか、若い人と話をしている。この人は若い人が好きなのだと思った。少しも気取っていなくて着ている物も私と同じ位安物だった。写真で見る顔とそっくりで人なつこい笑顔が素敵だった。こんな人がお茶を濁すような芝居を作ったら、蹴っ飛ばしてやりたくなるな、と思った。前売りの人達の入場が始まった。長い間待った私に係員が同情してくれたのか関係者と書かれた席を譲ってくれた。観客は通路の両端にまで溢れていた。始まると舞台中央の役者が観客に呼び掛けた「何をしているんだよ、劇場の暗闇でそうやって腰掛けて待っていたって何も始まらないよ、舞台の中はカラッポなんだ」このセリフは初演時はなかった。今日の為に作者が書き加え新しい命を吹き込んだのだ。後日財団事業部の高橋和貴さんに確かめた。僅か半年前は全くの素人であり、しかも盛りを過ぎた人達をこれ程存在感をもって統率した蜷川の腕力に驚嘆する他はない。その陰には蜷川スタジオの若い役者が随所で支えていることを忘れることは出来ない。それ無くしてはゴールドシアターもこれ程には輝かないだろう。このスタジオを蜷川は自らも会費を払って維持していること、そこに蜷川の真骨頂があり男としての覚悟があった。蜷川は決して倦んではいなかったし飽食もしていなかった。平成の今に向かって今にしか出来ない仕事をしようと汗をかき挑んでいた。露地裏で洗濯物を干す若い女のことも忘れてはいなかった。その姿勢は心地よかった。困難な状況が山積し、希望を失った若者達は次代の子供すら生めないでいるのに、この時代を担う為政者の怠慢に怒りを込めて挑発していた。実物通りの婆達は曲がった腰を忘れて肩で息をしながら見えない巨大な敵に身体をぶつけては倒れていった。蜷川の正気は失われてはいなかった。遠い射程の邪悪な正体をキッチリと見据えていた。潜り抜けてきた年月の重みを栄誉や金で曇らせてはいなかった。今はもう若くはない老躯を精一杯大地に立たせて屹立していた。どんな時でも何時の時でも男が雄々しく立ち向かっている姿は美しい。
2006.12.19



書く女

 私は小学館発行「せりふの時代、秋号」(平成十八年十月二日発行)に「二人の先達」と題し永井愛を井上ひさしと共に当代を代表する劇作家として激賞した。永井は時代を切り裂く問題作だけでなく「時の物置」「僕の東京日記」のような時代の証言者としての系列や「萩家の三姉妹」や「こんにちわ母さん」のような、何時の時代でも必死に生きている健気な家族の肖像を微笑ましく描いてくれる。一方では「新、明暗」等文芸物にも新しい視点から光を当てている。永井の作品群の特徴はひとことで言うならば生きることへの潔さである。健康で向日的で生活者としての視座を決してはずさない姿勢は揺るぎない人間への信頼が確固として根付いているからだ。それは「見よ、飛行機の高く飛べるを」でも判るとおり、あらゆる辛苦をものともせずひたむきに生きた祖母達の姿を見て育った永井の家族の健康さにある。我が国日本程国民が国家の為に翻弄されながら大国にのし上がった国はない。それでも何も言わず黙々と資源も無いアジアの小国が世界に肩を並べようと背伸びした近代国家、明治日本を支えた祖母達の奮闘をこれ程愛しげに書いた作家はいない。永井は百六歳で大往生した祖母の永井志津さんに度々師範学校時代の思い出話を聞かされ閉口しながらも昭和の時代を書き続けた。それらの作品はどれも愛しげで抱き締めたい程である。そしてこの度の「書く女」は明治に生きた樋口一葉に捧げる永井愛のオマージュである。健気で元気一杯の一葉が舞台に弾けている。同じ作家として一葉に対しては同性として様々な思いはあるだろうが、とにかく書くことによって辛苦を乗り越えていった一葉に賛辞を送らずにはいられなかったのであろう。それはわかるが私は男として始めて永井さんに要望をお聞き頂きたい。私が一葉に対して第一に感じてしまうことはとてつもない涙である。一葉の貧窮は想像を絶する暮らし向きであった。その中で一家の戸主として、たつきの道を求めて目前の食料を得る為に苦闘し続けた人生であった。その一葉が苦界に沈んだ女達と其処に群がる男達を書いた「にごりえ」は他の誰も書けなかった小説である。一葉はこの作品を短い吉原口の竜泉寺時代の中から書いている。並々ならぬ才能である。歌塾「萩の舎」ではその才能を買われながらも下女のように蔑まれた扱いにどれ程屈辱を覚えたであろうか。向学心に燃えた学校に「死ぬ程悲しい思い」で退学を余儀なくされる悲しみや針仕事、洗濯等で母、妹と三人の暮らしを守ってゆく心細さは想像するだけでも涙を止めることが出来ない。そんな一葉にも恋にときめく瞬間があった。雪がしんしんと降るなかを恋人の住む芝から本郷菊坂迄二時間を超える道のりを心弾ませて帰る様子を日記に書いている「白がいがいたる雪中、りんりんたる寒気をおかして帰る。吹かくる雪におもてもむけがたくて頭巾の上に肩かけすっぽりとかぶりて目ばかりさし出しすもおかし。種々の感情むねにせまりて…」永井さんにはもう一度一葉の女としてのこのような切なさを書きあげて頂きたいと願わずにはいられない。
2006.11.13



壹演劇人の死

 もし広渡常敏という名を知っているとしたら、その人はかなりな演劇通である。平成十八年八月にベルリンで開かれたブレヒト没後五十年祭に日本で唯一広渡が率いる東京演劇アンサンブルが招かれて「ガリレオの生涯」を上演した。広渡は俳優座を飛び出して一座を立ち上げてから一貫して独自の路線を守り通してきた。彼の演出する作品はほとんどブレヒトと久保栄と自身の作品である。たまには宮沢賢治や欧州の小品も取り上げるがなんといってもブレヒトが柱である。ブレヒトはユダヤ人であったが為にヒトラーが政権をとりユダヤ人への抑圧を始めるとアメリカに渡り代表的な戯曲は亡命生活の中で書かれた。戦後ドイツに帰国しベルリーナ・アンサンブルを創設してやっと落ち着いて活動を再開した。その行動は一貫して自由を抑圧するものへの抵抗であった。広渡は何故これ程までにブレヒトに傾注したのであろうか。当然広渡が直面する様々な社会の状況を、ブレヒトが自由を求めて多くの国々を渡り歩いた姿に重ね合わせていることは間違いない。しかし広渡と同時代を生きた多くの人は広渡とはむしろ別な生き方を選んでいる。その方が生きやすいからだ。だが広渡はそうしなかった。それがわかったのは私が「ガリレオの生涯」を観る為に彼の本拠地である西武新宿線武蔵関の「ブレヒトの芝居小屋」を訪ねた時であった。その日は五月でありながら雨が激しく降って季節はずれの突拍子もない寒い日であった。街道沿いのその小屋は今時の芝居を観る洒落た雰囲気とはお呼びもつかないスレート葺きの工場をそのまま転用したものだった。折り畳み椅子に座っても隙間風が冷たかった。だが芝居は熱かった。ブレヒトの思いが広渡と重なって劇団が燃えつづけたのだ。ブレヒトはこの作品を何度も書き直している。時代が激しく動いていたからだ。時代にシンクロしない作品は普遍とは呼べないという信念があるからだ。ブレヒトはその変容をガリレオを通して書き尽くそうとし、広渡はそのブレヒトを通してこの時代に自身の人生を縫いつけようとしたのだ。それは苦しくひもじく派手な脚光を浴びる虚栄は得られないが人々の良心に訴え時代の進歩に手をかしている達成感に喜びを感じていることは確かだ。こうゆう努力が無ければ世の中は暗闇だ。だが広渡は死んでしまった。九月二十四日のことである。死は常に不意打ちだ。私はガリレオの事をいつも頭の片隅において考えている。彼は異端審問官の前で自身の地動説を曲げたうえ、なを教会の尖塔に幽閉されて生き続けた。そのことをブレヒトは考え、広渡も考えた。私も同じく考え続けている。
2006.10.02



丹野郁己の挑戦

 丹野郁己はエイミーズ・ビューの演出に十年を費やした。十年は重い歳月である。その間この作品の上演を丹野はじっとあたため続けた。昨年になって丹野は民芸にとっても大きな進路の選択に関わるドライビング・ミスデイジーの演出を劇団から指名された。滝沢修、宇野重吉等によって創設されたいわば日本の本流とも言うべき劇団が他の劇団と提携公演をすることは決して気軽に引き受けられる問題ではない。内部において深刻な討議がかわされたことは当然であろう。結果的には奈良岡朋子、仲代達矢を押し立てて興行的には大成功を収めた。その論功行賞として丹野はやっとエイミーズ・ビューの演出を承認されたのであろうか。それ程にこの作家デビッド・ヘヤーは一筋縄ではいかない。丹野は積年の思いをぶつけるように礫のような台詞の山を役者に要求し、葛藤の筋道を際だたせながら若さと粘着力でヘヤーを押さえ込んだ。奈良岡にとっても昨年の数々の演技賞に輝いた実績を遙かに超える当たり芸となることは間違いない。名声を勝ちえた女優が時代の波に翻弄されていつしか片隅に追いやられ財産を食い潰し、果ては頼りにしていた娘にまで先立たれてしまった。失意のどん底で頼る者とてなくなった今も場末の芝居小屋で出番を待っている。水道管やガス管が剥き出しの支度部屋で老いさらばえた顔に化粧を施す女優、瑞々しく多くの観客を魅了した姿も今は干涸らびて動くこともままならない。それでも出番の声が掛かると老いの身体に水を打って眩い光の舞台へと立ってゆく。たとえ全てを失っても「劇場こそ人生」と喝采の中に身を躍らせる自分を今支えているものは女優の矜持だけ。一体、人生に大事なものはそれ以上の何があるというの。人はそれぞれ大事な何かを抱いて生きているのだ。エズミの背中がそう語っている。暖衣飽食して長生きして暇つぶしに右往左往している人間への痛烈な批判がこの作品の底流にはある。その為にも水を浴びる場面はもっと激しく自分を責める必要があるのに丹野は大先輩に遠慮した。格好ではお茶を濁しているだけでメッセージは伝わらない。森光子のでんぐりがえしに比べたら奈良岡さんには大変辛い演技となりましょうが是非乗り越えられて当たり役にして頂きたいと切に願うものです。演劇誌の中には題名の意味することがわからない、という意見があったが私には水を浴びるエズミこそエイミーの見解と考えて作者の意図とはずれたことにはならない。丹野のあたため続けた宝は見事に大きな果実をもたらした。大事なことは次のステップだ。後年デビッド・ヘヤーは「スタッフ・ハプンズ」を引っ提げて世界の現状にコミットした。丹野と民芸がこの後デビッド・ヘヤーとどう向き合うのか楽しみである。
2006.09.21



9.11と演劇

 今から五年前の今日、ワシントンからの友人の電話は忘れることは出来ない。夜の九時過ぎであった。仕事が一段落していたら私も一緒に行っていた筈であった。ワシントンの宿舎から見える河を隔てたペンタゴンから黒い煙が上がって消防や警察の他、軍のヘリコプターが飛んでテレビではニューヨークの貿易センタービルが燃えていると言うのだ。すぐテレビをつけるとやがて日本のテレビでもニューヨークの映像を映しだした。画面に釘付けになった。9.11のテロ報道はこうして始まった。憎しみの連鎖は今でも続いており死者の数も益々増え続けている。こんな時何一つ役に立てない自分に苛立ちながら人はどうやって過ごしたらいいのだろうか。余りにも遠い話であるのに、どうしても脳裏の片隅から離れない問題だった。フトこの夏の盛りのことを思い出した。都心を離れて草深い民芸の稽古場を訪ねたことがあった。私は何処の劇団でも稽古場のたたずまいが好きである。新国立劇場とかさいたま芸術劇場は最新の設備で文句のない空間だがそこには役者の匂いが希薄だ。そこへゆくと在野の劇団の稽古場には名声を博した役者から無名の者まで人知れず流した汗と涙が至る所から匂い立ってくる。これ程人間臭い場所はない。今の世の中何処へ行ってもそうした場所がいつのまにか無くなってしまった。何でも便利になって手軽に手に入るのに人間の温みがない。そんな中で躰を鍛錬し声を整え心を磨いて人様の歓声と拍手だけを頼りに生きてゆく役者と、その周辺の職人達の姿には人間が連綿と伝えてきた自然への崇敬とその恩恵を寿ぐ祝典の原型がある。とりわけ稽古場公演は何処の劇団へ行っても熱気と集中度が高く本公演と違って期待が裏切られることがない。人様の感動を糧として生きる芸術稼業は選ばれた者の特権である。この公演は本公演の秀作に比肩した。ただ経費に制限があるので装置等が貧弱なのは否めないがこのジェフ・バロンの平川大作訳、児玉庸策演出「扉を開けてミスターグリーン」の装置には目を見張った。深川絵美の細心の工夫が孤独な老人のたたずまいを念入りに構築した。映画でよく見るニューヨークの部屋の雰囲気とまでは及ばないが上手奥を切れ込んで奥行きをつくる丁寧な仕事振りである。そこへ里居正美のグリーンが現れると偏屈だが誇り高く生きる老人の匂いまでが客席に伝わってくる。ノックがありむさくるしい部屋には場違いな身なりのいいエリート社員のロスが入ってくる。値踏みするように見渡すロスにグリーンは腹を立てる。本来なら出会う筈もない二人だが、ロスは交通事故を起こしてその罪償としてグリーンの介護を裁判所から課せられてやってきたのである。お互い迷惑に思っている上グリーンにとっては羽振りのいい若造が如何にも義務を果たす為だけに自分の世話をやこうとするロスに誇りが傷つけられる。ロスにとっても好きで来ているわけではないのに頭ごなしに邪慳にされて腹が立ってきた。それでもお互いユダヤ人とわかって垣根が取れてゆく。やがてグリーンには最愛の娘がいるのだが異教徒と結婚した為に自ら絶縁して電話も切り手紙が来ても開封しない状況をロスが知り和解を勧めるがグリーンは拒絶する。一方グリーンもロスがいまだに独身であることを知り、死んだ妻がとても優しかったことを話して結婚を勧めるがロスは自身をゲイだと告白する。自由で開放的なニューヨークに暮らしながら、それぞれの事情によってニューヨークの相貌に陰影を与える孤独な暮らしを続けている。グリーンはユダヤ教の戒律を守る以外他の自由を認めないし、ロスは何不自由なく暮らしているがゲイの世界に低回している。それぞれ人間として一級品なのに、どこか精神の不自由を抱えて生きている現代社会の病弊を児玉庸策は二人を通して的確に彫琢してゆく。小杉勇二も優秀な能力を持ちながらどこか病的な繊細さを持つインテリを過不足なく演じている。やがてロスは自腹をはたいてグリーンの電話を開通させ娘からの手紙も読んで聞かせ、グリーンが本当に望んでいる娘との再会のお膳立てを強行する。終盤になって頑なに背を向けていた家族が、やがて絆を取り戻してゆく過程を通して人間の善意と努力が新しい人間の未来を開いてゆくというメッセージを娘が訪ねて来て扉を強くノックするシーンに込めて幕が下りる。実に感動的なエンデングを児玉は用意した。児玉は一体この芝居で何を訴えようとしたのであろうか。それは「寛容」という人間が他者に向かって放つ高貴な精神の作用のことであろうと思う。憎しみあって対峙しているだけでは何一つ解決はしない。愛しくてたまらない娘が自分に背いてユダヤ教を離れていった。グリーンにとっては神は生きる規範であるのに、その神を棄てた娘を赦せないと絶縁する。しかし娘のことは片時も忘れたことはないと知ったロスはグリーンに信条を超えて娘と和解しなければいけないと訴える。ロスにとってもグリーンはもはや義務を果たすだけの対象ではなくゲイと知って両親にすら唾棄され軽蔑されたのに正しく向き合って相手にしてくれる数少ない友人となっていた。重厚な舞台を創りあげた演出家と技術者達、そして存在感のある二人の役者。世界は殺戮がまだ続いている。それでも人間と人間が信頼で結ばれた幕切れにはどうあっても未来に希望を渡していかなければ、と考えさせられる。やはり生の人間が演ずる舞台は素晴らしい。これだけでは決して複雑な世の中の解決にはならないことはわかっている。しかし、こうした努力を続けていかなければ世界に灯は点らない。
2006.09.11


優勝より尊いもの

 早稲田実業の全野球部員とそれを支えた関係者諸兄の皆さん、本当に有難う。むせかえる夏の炎の中で固唾をのんで一球の行方に興奮した思い出はいつまでも記憶に残るでしょう。よくぞ頂点迄登りつめた。その勝因は全ての積み重ねたイニングの中に刻み込まれているが、なかでも忘れがたい山場は早実の全ての試合を振り返ってみると三つあった。この山場を乗り越えたことが紫紺の優勝旗に辿り着いたと思い当たる。一つは大阪桐蔭戦に勝ったこと。この試合の勝者こそ、その先の対戦相手を分析してみて決勝へ駒を進める運命を担っていたことがわかる。そのクジを引き当てた主将の強運に感謝すべきである。私は先に第一試合を開会式に当てた早実をなんとクジ運の悪い学校と嘆いたが禍福は糾える縄とはよく言ったもので人生は実に自分一人の力ではねじ伏せられるものではない。二つ目の山場は駒大苫小牧戦の決勝初戦の終盤に起きた。八回表駒大の三木が待ちに待った本塁打を打ち、これで早実も終わりか、と思われたその裏に起きた。早実の先頭打者檜垣の打った外野への飛球がどんどん左に切れてゆきレフト渡辺のグラブに触れたにも関わらずはじいてしまい檜垣は三塁まで進んだ。次の後藤も渾身の力で中犠飛を打って檜垣を本塁に迎かい入れた。これで駒大に傾いた勝運が再びどちらかわからなくなってしまった。山場の三っ目は同じく決勝初戦延長十一回表にあった。駒大先頭打者の中沢が安打を放ち次打者の本間に斉藤は死球を与えてしまった。再び勝運は駒大に傾いた。早実側は仕方なく田中を敬遠し満塁策をとった。香田監督は次打者に不運な落球をした渡辺を替えて岡川を送った。調子が上がっている岡川の打棒にこの夏の大事な勝負を託した。投球が一ストライク、一ボールになった時始めて香田監督に迷いが生じた。今迄いい所で安打を放つイメージが湧いていたが、ここはどうしても確実に一点を取って試合を優位にしたかった。香田は岡川にスクイズを命じた。斉藤は左足を上げて投球動作に入った瞬間、三塁走者の中沢が走り出したのを右目で捉えた。咄嗟に斉藤は球を低めにワンバウンドさせた。岡川のバットは空を切り捕手の白川はあわてて球を掴むと逃げる中沢を追いつめて遂に刺した。この場面をテレビで観戦していた元プロ野球広島の投手江夏豊は「斉藤は右投げだから三塁走者はよく見えた筈だ」と、そのすばやい判断を褒めた。彼こそ「江夏の21球」として対近鉄日本シリーズで斉藤と同じスクイズを見抜き無死満塁の危機を零点に抑えて広島を日本一にした名投手である。現実に戻ってその後斉藤は皮肉にも岡川にヒットを打たれ再びピンチを迎えたが次の山口を冷静に右飛にしとめてこの回とうとう零点に抑えた。この三つの山場を乗り越えて早実は再試合の決勝をものにした。勝負はこと程左様にどっちに転ぶかわからない転機を手中にしたものだけが栄冠を勝ち取ることが出来る。早実が凄かったのは実はその後だ。私もこの後のことは勝者に陶酔し賛美する若い女性達に譲って何も書くまいと心に決めていた。だが人々の狂乱する姿をよそに当の選手達は興奮の渦に巻き込まれることなく甲子園から新幹線で東京駅に戻るとバスで学校に直行し、ささやかな勝利報告を済ますと挨拶回りを除いていつもの普通の生活に戻ったことだった。勝つ迄が全てなのだ。勝った後の称讃は余生を楽しんでいる老人や勝者の余韻に預かりたい若き女性達にまかせておけばいい。勝負に生きる者達はそれ程にストイックで苛酷な修練の狭間の中にしか栄光は生まれないことを知っている。栄冠を手にした時の痺れるような生の実感を手にする為に再び底知れぬ闇に挑む者こそ勝者に相応しい。早実よ、再びその光を目指して一歩を踏み出せ。
2006.09.06



早実に勝利の冠を

 早実の諸君、よくがんばったね。君等はこの大阪桐蔭との試合の重さを全員で噛みしめていたね。春の選抜で歴史に残る延長十五回を戦った岡山県関西高に再試合で勝ったが続く準決勝では横浜高にメッタ打ちで破れてしまった。二回戦の相手はこの横浜高をメッタ打ちにした大阪桐蔭だった。勝負の世界では勝ってこそ恩返しなのだ。勝たねば報われない。その気持ちの強さはすぐ試合に現れた。初回川西の打った二ゴロは平凡だが気持ちの乗っているぶん桐蔭の二塁手謝敷の手をはじくヒットになった。桐蔭はこの日左腕の石田を先発させたが力んで続く小柳を四球にしてしまった。ここから早実が有利に戦えるチャンスだったが早実に手痛いミスが生じた。三番檜垣がバントのサインを見落とした為に二塁ランナーの川西は大きく離塁していて刺されてしまった。ここで勝負は桐蔭側に傾いたが石田の制球はまだ定まらなかった。檜垣は倒れたが後藤を四球にして船橋には右前ヒットを打たれてしまった。ここに今回の勝負の分かれ目があった。ライトの中田は大分内野側へ突っ込んで捕ったので二塁ランナーの小沢がまさかホームまで走るとは思ってもみなかった。だが小沢は暴走した。懸命に捕手へ返球したが間一髪小沢はセーフとなり一点が入ってしまった。好返球をしたのに点を取られた中田はその分を取り返そうと最後まで引きずってしまったし、打って点を入れた船橋は浮き浮きして最後まで気持ち良くプレー出来た。中田ははやる気持ちを斉藤に読まれて3三振、1左飛に討ち取られ、船橋は試合を決める三ランを三回に放った。この日は斉藤も小気味よく投げたし、打線も奮起した。ただ四、五回にバントを失敗したし、七回にはスクイズも出来なかった。小技も出来ないチームに勝利など笑止だ。斉藤も三回のヒットとHRはいずれもカウントを悪くして打たれた、と言うより三回の自陣の得点に気が緩んだとしか思えない。緊張感を無くすと隙が出来、相手に付け込まれる。よくよく自重あるべし。さて、いよいよベスト8を目指す戦場が迫ってきた。それから先は修羅場を潜り抜けた強豪ばかりだ。技術に差は無く何処が勝っても可笑しくない。僅かな運を引き寄せたチームだけが栄冠を手にする。ミスを犯したら退場だ。細心にチャンスをたぐり寄せ、大胆に勝負を賭けたものだけが勇者の戴冠を得る。臙脂と白のユニホームが整然とホームベースに並んで勝利を噛みしめながら私達に束の間の幸福を運んでくれる君たちの姿を夢見ている。
若者よ、ただひたすらに挑戦せよ。
2006.08.14



早実を応援しよう

 国分寺市民の皆様突然で恐れ入りますが早実を応援してみませんか。
第八十八回高校野球都の西東京大会決勝で早実は日大三高と息詰まる接戦の末、延長十一回やっと勝った。だが晴れの甲子園で試合を開会式の当日に当ててしまった。なんてクジ運の悪い学校だろう。投手の斉藤は221球も投げてまだ一週間しか経っていない。折角十年振りの夏の甲子園でも疲労が回復しなければ勝てないと思っていた。ところが初戦大分県の鶴崎工業高校二塁手の思いも掛けない二度にわたるエラーで貴重な二点を取り無難に勝ちを拾った。しかしここでも斉藤は126球も投げている。二回戦は春夏連覇を狙う横浜高校を破った大阪桐蔭だ。清原を凌ぐと言われる中田翔や謝敷、小杉の強力打線が相手である。今度はわからない。勝負は一寸先が闇だ。しかし斉藤は瀬戸際に立つと不思議に強い精神力を発揮してどうにか勝ち抜いてきた。非凡な能力があるとは思えないが、決して屈しない粘り強さと土壇場でもあわてない冷静さは斉藤の高い利発さを感じさせる。それが桐蔭に通じるか、どうか。投手は九回迄投げきって味方より少ない点数で抑え切らねば務めは果たせない。斉藤を少しでも休ませようと出した二番手の塚田は一死も取れずに二人も四球に出して又斉藤に替わった。塚田よ、悄気ないで次の機会を待て。出番はかならずやってくる。その時最善を尽くせばいい。他の選手も肩に誇りを背負って頑張ってほしい。早実は五年前に新宿から国分寺市に移ってやっと今年夏に出場することが出来た。文化を看板にする市にとってどうしても華を咲かせたい素材である。しかも青春の一途さと切なさに胸ときめかせる高校野球だ。老いも若きも人生の苦労は一時忘れて応援しようではありませんか。早稲田実業よ、負けるな。国分寺市民の全てが君等の一挙手一投足に目を凝らして健闘を祈っている。純真な青春の心で今、日本を覆っている暗雲をうち払って明日に希望を抱かせるような力を我々に与えて頂きたい。そのことを切に祈ってやまない。
2006.08.06



花だより・3

 七月三十日関東地方に梅雨明けが宣言された。今年は九州南部で東京の一年分の雨が三日間で降るような大荒れの天気となり長野県、島根県等も被害を受け「平成十八年七月豪雨」と気象庁が名付ける程の異常さであった。昨年、枯れてしまったくちなしの跡がそのまま空地となっている。雨あがりを見ては何度かガーデンハウスを訪ね、くちなしの鉢の行列を眺めては帰ってきた。思案しているのはやはりもう殺生はしたくない、という思いである。花を愛でる為に蟲を殺すことに躊躇いがあった。何度も蟲にやられたのでかならず二本植えてきたが、今回一本だけは重傷だったが冬を越して花を咲かせた。しかし今ではもう無事に大きく出来るか甚だ心許ない。考えているうちに雨は何度も庭を濡らした。その時今迄気づかなかったのだが、庭には小さな石仏があってそこに露草が咲いていた。ホタルのような紫の花は可憐だが茎が長いので廻りの植栽とのバランスがとれない。咲き終わるのを待って刈り取っていたが、いつも咲くのが石仏の脇であることに気が付いた。石仏と露草はよく似合った。咲いている時は短く雑草の類だから今迄全く心に留めていなかった。だが、よく見ると露草は美しい。私が見ようとしなかっただけだ。きっと生きているものは全て美しいのかも知れない。私がわざわざ貧しい美意識で殺生をすることもない。自分は一体何サマだ。残念ではあるがもうくちなしは植えないことにした。今年の長梅雨にそんなことを考えさせられた。

    あふこともいまはなきねのゆめならで、いつかは君をまたはみるべき

 人の世のささやかな暮らしに安らかな日々があたえられますように。
2006.07.31



花便り・2

 九州地方が梅雨入りした。東京も一週間のうちで一度は雨が降るようになり、街路樹も水気を取り戻して生き生きとしてきた。冬の間葉を落としていた樹も一斉に葉を芽吹いた。竹の子が所かまわず伸びてきてうるさかった。牡丹は今年咲かなかった。芍薬が五輪だけ咲いて春の最後の花になった。その中で遂にくちなしから葉が芽吹いてこなかった。枯れてしまった。昨年、雑用が多くて目を離した隙に全て毛虫に葉を喰われてしまった。今迄は二度退治すれば次ぎの年に再び葉を伸ばしたのに昨年は三度毛虫が出たのだ。それが油断だった。まさか三度も出るとは思わなかった。
 夏になったらキット目を奪うような蝶々が庭に舞うだろう。くちなしは我が家に始めて義母が持ってきてくれた花だった。その度に大事にしてきたが、次々と毛虫にやられて今のは五代目だった。匂いは甘やかで顔を寄せると目をつむりたくなる程いい匂いがした。白く厚つぼったい花びらが汚すのを怖れる程純白で女そのもののようにほっとけない思いをさせた。私はその度に毛虫を殺してきた。長い毛が躰中に生えていてブヨブヨ動く毛虫を新聞紙に挿んで押し潰した。この感触がたまらなく不快だった。そうしなければくちなしは毎年花を咲かせなかった。しかし何匹毛虫を殺してもくちなしの花は咲かせたかった。静かでふくよかでそして色気があった。渡哲也の歌に思いが重なった。
    くちなしの花の   花のかおりが
    旅路の果てまでついてくる
縁側に座って長い間枯れてしまった木を見ている。白い花の甘い匂いがいつまでも残った。
2006.05.31



美しき日本の女

 かくも美しき女性がいるだろうか。常々観慣れている本多公民館のホールが一瞬にして竹林に囲まれた京都嵯峨野の神社へと誘われる。黒塗りの鳥居を潜って朱の玉垣を巡ると此処は伊勢神宮にゆかりの野宮神社である。そして源氏物語の舞台である。「葵の上」が女性の容赦のない一途な嫉妬を掻き立てれば「野宮」は燃え上がる恋心を一度は踏みにじられて噴きあがる怒りに逆立つ心を騒がせる。しかし訪ねてきた光源氏に六条御息所は高ぶる妄執を断ち切って、会わずに伊勢へ旅立つ心を固める。覚めやらぬ恋情を胸の裡に深く鎮めてなお募る思いを埋めて生きる女性の美しさ、切なさが惻々と伝わってくる舞台であった。四月二十二日に行われた国分寺市謡曲連盟春の大会の一齣である。色鮮やかな化学繊維の氾濫する現代にあって昔ゆかしい浅黄色の絹の着流しに紅花で染めたか朱色の袴が典雅な平安時代の日々を伝える。宝生流、山田さんが松を脊にたたずむ姿はあたりを払って一際美しかった。これぞ大和心に留めおかまし女性の極上の姿をこの時の中に刻印した。黒髪こそ日本女性の古来の美しさである。金髪、茶髪がどれ程美しいか、色彩溢れる外国の街中でこそその色は鮮やかだが、この頃少なくなってきたとはいえ緑濃き日本の風土には黒髪こそよく似合う。揺るぎない物腰に凛とした姿勢、いつの時代でも日本女性の美しさはその故に世界に定まった評価を占めてきた。徒な物真似は個性を潰すばかりだ。今こそ女性は胸を張って日本の原点に回帰し古来の美しさを現代に蘇らせるべきである。確固とした女性の美しさだけが雄々しい男を育て上げる。この世に蔓延している軟弱な男共の醜態を女性の美しさをもって一掃せよ。これこそ興国の一助である。
2006.05.31



花便り・1

 暑い陽差しが照りつけるかと思えば急に激しい夕立がやってくる。春はそうやって本格的に新緑を迎える。今年の冬はことの外厳しい寒さが続いたせいか春が待ち遠しかったが暖かい春になって何故か心に沁みるのは気が付くとだいこんの花だった。二十数年前都心から引っ越してきて我が家の庭で最初にお目にかかった花だった。薄紫の花を散らして葉っぱは湯がいて食べられそうに柔らかい。この花は散歩する市内の至る所で目にすることが出来た。武蔵野の台地に最も似つかわしい花に思えたが、この花も近頃はとんと少なくなってきた。我が家にも庭を造作したらとたんに姿を消してしまった。人の手を加えない自然の中にこそ可憐に咲き誇る花だった。それだけにひとしお愛おしい気がしてならない。そうやって行く春に思いを潜めている自分に気が付いて何故だろうと考えた。そして思い当たった。このところずっと心の片隅に消えないで残っている一つの出来事がある。それは六十三年振りに故国に帰ってきた元日本兵のことだった。樺太で終戦を迎えた上野石之助さんは妻の出身地である遠いウクライナで生存を確認された。何故今迄帰らなかったのか、と問われて「答えたくない、ただ運命だ」と記者に告げた。その一言に思いのたけが込められていた。どんなに辛い人生があったことと思う。戦争を知らない私はただ黙って二度と戦争を起こしてはならないと思うと同時に平和だったこの戦後六十年も決して平坦ではなかったことをしみじみと思い起こすのだった。
2006.04.27

マーシャの涙

 もしマーシャの目に涙がなかったらこの芝居の印象は全く違ったものになっていたであろう。平成十八年三月二十五日昼の俳優座稽古場における第十六、十七期研究生による終了公演である。読むだけでもホロ苦い人生の味が伝わってくるチェホフの「かもめ」であった。役者が演ずることによって言葉が立ち上がり生々しい興奮とメッセージを観客に与え演劇は人々に力強い人生への応援歌となった。芝居は演じている時が勝負である。映画のように撮り直しが効かない。まるで吹き鳴らすモダンジャズのように、その時演劇を成立させる全ての部門が舞台に結集されなければ観客に感動は届けられない。この時の芝居は出色の出来栄えであった。その理由をこれから書いてみたい。その為にはまず芝居は技を磨いた数々の技術集団によって成り立っていることを告げなければならない。まず芝居は台本が基本である。台本が拙かったらそれこそ台無しである。映画やテレビは八十%以上の重さを占めているが芝居では六十%以上の比重を台本が占める。その意味で「かもめ」は始めから合格点は与えられている。与えられていても一つの部門でも失敗したら気の抜けたビール程になってしまう。気の抜けたビールはもはやビールと言えないように芸術は百点が最低点である。百点を目指してやっと観客に感動が届く厳しい世界である。古今の名作を今演ずるにはそれなりの意味が無ければならない。「かもめ」だって初演に失敗してチェホフは六年も芝居を書かなかったように、書けばすぐ評価が定まるものでもない。その責任を負う者は演出家である。(勿論適任の役者を集める製作も重要だが)演出家は今この時代に何の為に「かもめ」を舞台にのせるか、明確な意図がなければならない。その点で安井武は現代を貫く視座を確保した。安井武は何をもって今回の上演の意図としたか。鍵はこのセリフにある。
  メドベージェンコ あなたはいつ見ても黒い服ですね
  マーシャ     わが人生の喪服なの。あたし不幸せな女ですもの(神西清訳)
 安井はここに着目した。マーシャは主人公トレープレフの叔父に仕える支配人の娘である。チェホフはこの脇役をかならずしも丁寧に書いていない。むしろ類型的で人間的な肉付けが足りない。ずっとトレープレフを愛しているのだがトレープレフはニーナに夢中で見向きもしない。それとわかると自分を長い間求めている教師のメドベージェンコに嫁ぐが、気持ちはいつもトレープレフにあるので夫への仕打ちは残酷である。そこの所がもう少し引き裂かれた悲しみが出ていればいいのだがチェホフは一辺倒に夫を侮辱して憚らない。教師もいいなりに従うばかりだから善人だが平板である。しかし、このような夫婦は今の時代にこそ日常見渡せばそこらじゅうにいるのではないか。これこそ現代の縮図である。まず生きなければならない。心ときめくことに何時までも向き合っていては身が立たない。早いところ身の置き所を確保して生き延びる算段をしなくては。但し、心は別。心だけは自分のものだから、いつまでも執着して好きな人を追いかける。安井はこの悲恋の物語の中に一貫してマーシャを釘付けにする。最後まで姿勢を正して喪服を着させて端正に配置する。その対極に常に孤高を律して俗悪を拒絶するトレープレフを置く。愛するニーナが自分の母親の愛人である作家に弄ばれ、自分から去っていっても流浪の人生を歩んでも、何処までもトレープレフはニーナを追いかけてゆく。母親の女優を俗悪の極みのように安井はおぞましく演じさせる。最後に安井は全ての仕掛けをこの終幕に賭ける。チェホフの台本には細かいことは何ひとつ書かれていない。もはやニーナを取り戻せないと悟ったトレープレフが部屋を出て行った後に再び食事を終えた一同はテーブルについてカードに興じている。照明は抑えて闇があたりを覆っている。そこへ一発の銃声が轟く。瞬間立ち上がるマーシャにスポットの照明が当たる。マーシャは全てを理解した。舞台一杯にショパンの夜想曲第一番変ロ短調の旋律が流れた。このショパンが切なくて胸を詰まらせる。様子を見に行った医師が戻ってくると作家を片隅に呼び寄せてトレープレフの死を伝える。この二人にもスポットの照明は当たるが何事も無く振る舞う二人に比べ、身を凍らせて立っているマーシャの目に涙が光っていた。この涙こそ今を切り裂く一条の光となって現代を照らすのだ。照明の高橋智宏、音楽の落合真奈美。マーシャは浅川陽子である。安井が全てを導いたとしても涙は浅川のものである。心に秘めていた愛する者の死に、初めてマーシャは心を開いて泣いた。どんなことにも心を閉ざして生きてきた人にも愛の終焉は身を捩る程の苦しみである。安井は照明と音楽にその意図を伝え、浅川にも説明したが、こんな形でカタルシスを迎えることが出来て全ての関係者と共に、この芝居の成功を祝したことであろう。ニーナの恋はいつの時代でも散見される女性の大きな関門ではあるが甘酸っぱい人生の遍歴者となった。それに引き替え、この不毛で凄惨で残酷な事件の絶え間のない現代にあってむしろ登場を待たれるのは、マーシャの存在ではないだろうか。安井はその点に照準を当てて引き金を引いた。弾は見事に時代を貫いて舞台を飾り、浅川はその故に華を咲かせた。
2006.04.18


名残の桜

 前回、国立の桜について書いたら家人から国分寺市の桜についても書かなくては片手落ちではないか、と問われた。そう言われて虚を突かれた。醜女の深情けではないが、醜男の私でも自分の住んでいる場所への思いは複雑で一杯あるのだ。有りすぎるのでためらいがあった。しかし良い機会だから書いておこう。私も自ら進んで人前に出るような性格ではないが家人はもっと控え目でひっそりと片隅で生きていたい人柄である。それでも私は桜といえば繚乱と咲き誇る場所に一度は立ってみたくなる。しかし家人の好みは徹底している。国立のように人の集まる所は好まない。家の近くのK氏邸である。実は私も秘かに楽しんでいる所だが大きな長屋門の左右に一本ずつ桜が立っている。その前には京都談山寺のような十三重の塔と巨大な石と灯籠が置いてある。ただそれだけだ。それがいい。簡素で桜が無心に咲いている。人もいない。ただ清澄な風が吹くばかりだ。この場所は人に知られたくない。ただ独り占めにして往く春を惜しみたい。国分寺市にも武蔵公園も国分寺跡もけやき公園の桜もある。だが今ひとつなのだ。もう一カ所素晴らしい所がある。日立中央研究所が春秋に一日だけ市民に所内を開放する。七万坪の敷地に国分寺崖線の自然を手つかずに保護している。数カ所の湧水から池を造り野川の源流となって流れている。白鳥も飛来する。やはり世田谷区上野毛にも国分寺崖線を利用して今は美術館となっている旧五島慶太邸は丁度三菱財閥の岩崎弥太郎の殿ケ谷戸庭園と同じ一個人の美意識が自然を更に庭師を入れて庭園を造型したが日立は創業者の遺志を継いで大きなスケールで武蔵野の景観そのものを保護した。だから鬱蒼と繁る自然林もある。このように国分寺市は企業や一個人がかろうじて景観を守っている。国立は先の最高裁判決によって市民や行政が長い年月をかけて守り育てた景観を守るべき権利として大学通りのマンション訴訟において認められた。この先人の教訓を私達は学ばなければならないし、国分寺の企業や個人の尊い命脈を受け継いでいかなければならない。今は瀬戸際に立たされている。一つの例を挙げると現在3.4.6号道路の拡幅工事が行われているが、かって西武多摩湖線踏切近くのそこには一本の名だたる桜が立っていた。勿論市が管理する保存樹林ではないが、この桜には思い入れがある。仕事でいつも通っていたが満開の時にはその花吹雪の下を潜って行く程見事な花を咲かせた。その名残の桜がまだ一本商工会館の庭先に咲いている。かっての桜の根元にはいつも生花が置かれていた。惨禍に見舞われた親族の方への忍び難き思いが季節を問わず足を通わせていたのだ。そのことに常に私は思いが残った。
    限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風
蒲生氏郷の辞世である。国分寺市の行政の為にこれでは何もしていないと市民から思われてはいけないので弁解に一つ。平兵衛樹林の二本の桜は宵闇がよく似合う。若い男女がひっそりと春の宵に散策しながらフト立ち止まって眺めていたい静かなたたずまいである。
2006.04.11



惜別の桜

桜が満開になった。私は毎年この日を待ちかねている。その日が来ると決まって国立駅からまず一橋大学に行き兼松講堂脇の池畔に座って桜吹雪を心ゆくまで浴びることにしている。時には文庫本などを読むこともある。気が済むと大学通りへ出て満開の桜の下をゆっくりと歩きながら過ぎて行く時間を慈しむ。充分堪能すると又駅へと引き返す。気分次第で毎年折り返す場所は変わるが、増田書店へ寄ったり山口瞳とよく出会ったロージナでコーヒーを喫んだりする。桜は何かを待ち望んでいるような華やかさがある。しかし何よりも散り際が潔い。西行や本居宣長も桜を愛したが私には我を忘れて何かに夢中になった後の、フト我に返った時の儚さにも通じている。人生はそんなものだという思いも離れない。水上勉の「桜守」はダムに沈む荘川桜を懸命にダム堤迄引き揚げ移植した桜職人達の話だが、これには大いに稚気を感じたものだ。そんなわけで仕事で旅に出た折には桜を求めてよく寄り道をした。宇野千代や小林秀雄が心酔した岐阜県根尾の薄墨桜や京都円山公園の枝垂れ桜は有名だが、たくさんの品種を愛でるには大阪造幣局の通り抜けが面白い。関西人のおおらかさが弾けてくる。西行の気分を味わうにはなんといっても吉野に限る。峰々を縫って杉、檜の狭間から湧き出すように咲き誇る桜は一瞬の華やぎに酔いしれるだろう。芭蕉には中尊寺の桜だ。藤原氏の栄華と義経の悲劇が花を添える。桜には城と寺がよく似合う。姫路城、弘前城もあるが山深くに咲いた高遠城跡の桜が一番だ。秀吉の愛した醍醐寺や毛越寺など桜は日本人の美意識が心の襞に縫い合わせた万華鏡だ。その中にあっても私の胸の奥でいつも咲いている桜は秋田県田沢湖畔の御座石神社の桜である。世界一の透明度を誇る広い湖面にむかって桜はたった一本で対峙している。春でも東北はまだ肌に冷たく耳で風が鳴っている。花びらはやっと枝に留まっている。張り詰めた空気が風景を凍らせる。一人でずっと立っていると、短い時間を生き急ぐ人間がこの景色の中に吸い込まれてゆく。桜を観る時に、私は気が付くといつも心の中で一つの歌を唱っている。
    散る桜、残る桜も散る桜
良寛の歌である。
2006.04.02



熱く燃えた世界一

 九回裏二死一塁、大塚はキューバの三番グリエルを三振に取った。選手達はマウンドに駈け寄って一本指を天に突き上げた。とうとう日本は世界野球大会で困難の末世界一になったのだ。そして王監督を胴上げした時視聴率は五十%を超えた。三月二十二日は日本中の国民がテレビにかじりついていたことになる。世界大会が始まる前に誰がこれ程の熱狂を予想しただろうか。ヤンキースの松井や井口すら出場を辞退して、しかもペナントの開幕を控えたこの時期にドミニカや大リーグを相手にして、とても気乗りするようなイベントとは到底思えなかった。その様相を一変させた要因は四つある。だからスポーツは面白い。一つは韓国の国を挙げての愛国心の高揚である。全ての大リーグ所属の選手を動員し、準決勝迄無失策のひたむきな敢闘精神には目を見張るものがあった。サッカーはまだ韓国に追いついていないが、こと野球に関しては日本のプロを引退した選手が韓国リーグに参戦して大活躍している状況が現実だと思っていた。しかし、この大会における韓国との二戦においては両者息詰まる熱戦を繰り広げながら最後には長打を喰らって日本は負けていた。正にイチローが舌打ちするような日本のていたらくであった。その鬱憤を晴らしてくれたのが準決勝における福留のホームランであった。あの時六回まで両者零点で一つの失策も赦されない緊迫した試合が続き、又負けるのでは、とヒヤヒヤしながら見ていたら七回表代打で出てきた福留が目の覚めるようなホームランを打った。あの時一度血の気が引いて、すぐ血が沸騰するような興奮に包まれた。もう負ける気がしなかった。その位起死回生の一打であった。要因の二つ目はアメリカのボブ・デビットソン審判員のあからさまな不正判定である。これ程公正を踏みにじってアメリカに組みする判定は正に十人目のアメリカ選手のようであった。西岡のタッチアップといい、メキシコのポールに当たったホームランを二塁打と言い張るボブはまるでアメリカの威信を踏みにじっていた。この判定に怒ったメキシコの奮闘がなかったら日本の世界一はなかった。要因の三ッ目はイチローのプロとしての自覚である。磨かれた技術を披露して観客に感動を与えたい、とする清々しいプロスポーツの精神に日本の選手はチームの結束を高めていった。この意識が各選手に伝わって世界大会に相応しいスリリングなゲームを作り上げた。最後はやっぱり王監督の野球に賭けた人生の揺るぎない信念が、この大会に一つの筋を貫いた形となった。あの西岡のタッチアップにボブ球審は一度宣告したセーフの判定を覆した。試合後、王は記者会見で「野球を創りあげた国で決してあってはならない」と静かに語った。日本の選手達はこの王の言ったスポーツの原点を勝ち取る為に日の丸を背負って戦った。人生の感動と至福を日本チームは世界の人々に伝えたのだ。
2006.03.29



トリノの華

 冬季オリンピックが終わったらアッという間に嵐が吹いて東京にも彼岸の日に桜が開花した。気象庁の職員が開花の指標としている桜が靖国神社の境内にある。このところ靖国神社と言えばアジア各国で物議をかもしている。小泉首相の手腕は野党の貧寒さが曝露される程老獪だが、こと日本が国際的な信用を得る為にはそんな小手先の言辞では通用しない。早い話が日本は国連に対しアメリカに次ぐ世界第二位の拠出金を出している大国なのに安全保障理事会の理事国にもなれない事実は、世界から軽く扱かわれている証拠である。これ程の侮どりを世界から受けている日本国民に対して政府は責任を果たすべきである。本筋は人としての誠実さがやはり最後には国と国との信頼も獲得する道であることを肝に命じてほしい。そんな時こそ荒川静香のイナバウアを思い出してほしい。技術的な評価点は全くないが彼女のしなやかな肢体は忘れかけていた女性の美しさを氷上の舞台に、狂おしく開花させてくれた。金メダルもさりながらトリノ市が彼女に贈った金とダイヤのティアラはどれ程か国際親善に貢献したことだろう。この美しさは彼女の幾千、幾万の長い歳月に積み重ねた努力によって開花したことを悟らなければならないだろう。努力と言えばトリノの大会で一番心に残ったことをどうしても私としては伝えておきたい。その人は里谷多英である。日本の男達がしばしの気晴らしに読み捨てる扇情的な雑誌フライデーに昨年彼女は無防備に晒し者にされた。夜の六本木のバーと言うだけでスキャンダラスである。若く美しい女性が世界の頂上を目指して技を磨がかねばならない禁欲的な修練は苛酷を極めている。そこを通り抜けなければ当然観客に対して深い感動は与えられない。厳しい修練を重ねている彼女にとって、しばしの息抜きが時には羽目を外すことだってあるだろう。自分だけ安全な場所にいて他人を非難する態度に私は組みしない。そういう人に限って他の代表選手は誰もそんなことはしなかった、と反論するだろう。どうか多くの欠点よりも少ない特性をこそ褒めてやっていただきたい。里谷はその為に日本代表に与えられる強化選手としての特権を辞退して一般選手と同じになって練習に取り組んだ。警察の取り調べや謹慎によって大幅に練習時間は割かれ精神はズタズタになった。興味本位の視線に曝されながら続ける練習は若い女性にとって耐え難いことだったろう。里谷は競技終了後泣きながら「これが私の実力です」と決して弁解はしなかった。だが想像力を働かせてもらいたい。彼女が第二エアーで披露した技はフロントフリップである。これは顔を雪の中に突っ込んでゆくような危険な宙返りである。充分な練習が取れなかった里谷にとって間違えれば首の骨を折る程の大技なのである。自分で傷つけてしまった誇りを身を捨てても取り返したかったのである。私のような小心者にはたとえ一億円をくれると言われても出来ない技である。その大技に挑戦することによって汚名を晴らしたかった。一寸した弾みで破廉恥をやってしまった自分を一流のアスリートとしての矜持が赦さなかった。たとえ、モーグルの競技中に首の骨を折ろうが日本を背負って戦う以上、自分の誇りに賭けて称讃に値する成果をトリノの舞台で証明したかった。その気持は痛い程わかる。大技は成功したのに僅かに着地に失敗して十五位に終わった。なんと晴れがましい十五位か。人生に浮き沈みはつきものだ。大事なことは落ち込んだ時にもう一度挑戦する心だ。彼女はそのことを教えてくれた。里谷が挑んだ勇気を私は決して忘れない。是非四年後のバンクーバーを目指してほしい。今回、荒川を除いて日本は全ての競技で無冠に終わった。だが大会に挑んだ全ての日本人選手に対して私は大いなる敬意と称讃を贈るものである。
2006.3.21


魂の画家ゴッホ・1

      序
 クリスティーズが今年の五月にニューヨークで「アルルの女」を競売にかけると発表した。最低価格は四十七億円である。生前「赤い葡萄園」がやっと四百フラン(現在のユーロ換算で五万八千円相当)で売れたことを考えると、どんな楽天家でも人生の酷薄さを感じずにはいられないであろう。しかもその絵たった一枚しか売れず拳銃で我が身を撃った。三十七歳の若さである。レコ・ポントワジエン紙の地方版に小さくその死は報じられた。 ゴッホは何故引き金を引いたのか。現在世界各地の美術館に八百七十九点の絵が残されている。そして手紙も八百通余りが保存されている。その中から丹念にゴッホの生涯を辿り、如何にして死を選ぶに至ったかを検証してみたい。最初にゴッホが芸術家の理想を求めて共同生活の相手として熱望したが、互いの考え方の違いから悲劇的な結末を迎えたポール・ゴーガンが、その死に接して残した言葉をオマージュとして掲げておこう。「フィンセントの訃報を知り彼がどれ程狂気との闘いで苦しんでいたかを知っている。彼にとって死ぬことは大きな幸福である。まさに苦悩の終焉を意味している。彼は今まさにこの世でなした善行の成果を携え一つの生に戻ってゆくのだろう(仏陀の教えによれば)」

      自画像
       1
 私はまず自画像から始めたい。と言うのも私が初めてゴッホの展覧会を見たのは十八歳の時である。その後何十回か観る機会のある度に、代表作にはお目に掛かったが、まだ再会を果たしていない絵があり、それが「自画像」の一枚だからである。ゴッホはパリで初めて浮世絵に出会った。その構図と色彩の絢爛さに圧倒され彼の画業に大きな影響を与えたが、彼の代表作を生み出したアルルはまさに日本の風土に近似しているという理由で選ばれた。事実ゴッホが初めてアルルに着いた時一面の雪景色であった。そのことを手紙で書いている「まるで日本の画家が描いた冬景色のようだった」と。その為日本にも有数のゴッホ愛好家がおり、何度もゴッホ展が開かれ新宿の東郷青児美術館等は五年に渉ってテーマ毎に展覧会を開いた程だが、まだ私の「自画像」はやってきていない。不幸にしてその時のカタログを何度かの引っ越しで紛失してしまったので収蔵している美術館もわかっていない。全ての自画像を収めていると宣伝していた美術本にも当たったが発見することは出来なかった。ゴッホの自画像は四十数点が知られている。そのいずれもが一つとして同じものがない。そして皆それぞれに苦悩と意志を現していないものはない。ただ三枚描かれた「麦藁帽を被った自画像」のうち千八百八十八年アルルで描かれた「麦藁帽を被った自画像」だけは違っている。この絵だけは気の抜けた道化師のような奇妙な顔をしている。何十回となく眺めては思案したが結論として未完と考えるしかなかった。ルオーと違って気に入らない作品を焼却したり、何年にも渉って描き直す性癖のないゴッホにしてみれば独断に過ぎると考える人がいるかも知れないが私には「制作中」としか考えられない。「自画像」程画家の魂を写す作品はない。レンブラント、デューラー、ゴヤ、セザンヌ、モジリアニ、スーチンと異色の名作が一杯頭に浮かぶが、やはり十八の時のゴッホには愛着がある。どの自画像もそれぞれ特色があり、どれもゴッホ自身であるが多すぎてどれを生きていた時の平静な時のゴッホか断定することが出来ない。むしろ客観的にこれが普段のゴッホだな、と推察出来るのがパリに出てフェルナンド・コルモンのアトリエで絵画の基礎を学んだ時の同期生ジョン・ラッセルの描いた「ゴッホ像」である。この絵が最も客観的なゴッホを想像させる。落ち着いて思慮深い顔をしている。自画像を描く為にはどうしても鏡を使わなければならない。従って大概の自画像は右向きあるいは左向きである。ゴヤは鏡の存在すら感じさせない自然な自画像で感心するが、デューラーのように正面の時がある。私のゴッホも正面であった。正面を描く為にはどうしても顔を描く度に画架に顔を移す必要がある。目だけ移動させて描くというわけにはいかない。その分右向きや左向きの時よりも画家自身が肉体の苦痛を伴う分だけ正面の時には思い入れが深くなる。私のゴッホはまさにその入魂の作と考えている。どの自画像もゴッホにおいては一点を除いて全て入魂の作でないものはないのだが、正面だから観る者はどうしても目を合わさないわけにはゆかない。そのことをゴッホは意識している。デューラーも目が合ってしまうが、デューラーから受ける印象は観る者の心を騒がせない。平静に絵画の美術品としての品性と格調を受け取りながら鑑賞する時間を渡される。観る者はそこでゆっくりと非日常の世界に浸って芸術を堪能するのである。ゴッホは性急である。観る者を落ち着かせない。常に挑んでくるのである。その呪縛に十八の時から罹っている。その問いかけはいつも「これでいいのか」である。私はその自画像の前で長い間動けなかった。中折帽を被り三つ揃いの背広を着てタイも締めていた。眼光は鋭く、そして深かった。その絵にどうしてももう一度会いたいと思っている。先年クレーラー・ミューラーとゴッホの両美術館が合同で生誕百五十周年記念の展覧会があった。その時どうしても行きたかったが日程の都合がつかなかった。正面の自画像はパリ時代の二年足らずの時期にしか描かれなかった。それは何故か、端緒については「風景画」の項で触れる。従兄弟の画家アントン・マウフェによって色彩に目覚めたゴッホはこの問題と向き合う為にどうしても本格的に絵画の基礎を学ぶ為にパリに出発した。そしてフェルナンド・コルモンのアトリエでロートレックやエミール・ベルナールとも出会って大きな刺激を受ける。そこでゴッホは「これでいいのか」の他に「お前は一体何者なのか」という問いにぶつかる。この自らへの問いかけが必然的に正面からの自画像に結実するのである。だからこそ当然にパリにおいてポール・ゴーガンと運命的な出会いをすることになる。新宿の東郷青児美術館にはゴッホの「ひまわり」とゴーガンの「アルルの並木道」が並べて常設されている。よく見れば全く異質の画家である。ゴッホは終生家庭の愛に飢え家庭の温もりを求めた画家だが、ゴーガンは株式仲買人という技能職にもつき、しっかりとした妻にも恵まれた良き家庭人であった。しかしゴーガンはその平穏な生活を捨ててパリにやって来た。二人に通底するものは「お前は一体何者なのだ」という問いかけに突き動かされて生涯を生きる運命を同じく担ったことである。晩年ゴーガンはタヒチにおいて「人は何処から来て、何処へ行くのか」の大作を描き上げて死んだ。その意味で二人は合わせ鏡のように相手の中に自分を見ていたのである。しかし毎日その姿を見て暮らすのは耐え難いのだ。アルルでの熱望した共同生活は僅か二ヶ月に満たない期間で破綻する。ゴッホは絶望して次第に精神の均衡を失っていった。耳切り事件はその時起こった。二人の作画上の違いは決定的であるにも関わらず一寸した契機で果てしない議論となり互いに相手を打ち負かそうとした。二人とも強情で決して譲歩は出来ない性格であった。むしろゴーガンの方が社会の中で生きてきた経験からギリギリのところで危機を回避する分別を持っていた。ゴッホがカミソリを持って追ってきた時ゴーガンはホテルに泊まって「黄色い家」には帰らなかった。ゴッホは激情に駆られて自らの左耳を切り裂き新聞紙に包んで公設娼館の女に預けた。ゴーガンは翌朝黄色い家で瀕死のゴッホを発見する。直ちに市立病院に運ばれたが飛んで来たテオと共にゴーガンはパリへ去った。再び一人になったゴッホに市民は恐怖を抱き黄色い家の使用禁止を警察に願い出た。ゴッホは自ら願い出てサン・レミの療養所へ入ることになった。

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 千八百八十九年の七、八月はゴッホにとって最も激しく発作を繰り返して、その恐怖からしばしば絶望と再生に神経をすり減らした時期である。その頃サン・レミ療養所において描かれた自画像は精神の均衡を逸脱し、正気と狂気のあわいをしばしば行き来してそれでもなおかろうじて正気の淵にとどまっている状態の自画像を残している。この時の微かに消え入りそうな精神の覚醒をじっと堪えて描いているゴッホの姿には鬼気迫るものがある。この時の手紙には「いつも発作と発作の間にある希望、その間は頭が明晰になり仕事が出来そうな状態だから病気のことは考えないことにしている」とある。懸命に自らを描くことによって正気にとどまろうとする闘いを戦っていたのだ。ゴッホにとって自画像は自らの正気を測る測定器だったのだ。この時の絵は危ういが深く内省的で瞳はその奥に自身の身体を突き抜けて大地の底深く真っ直ぐに錘を垂らしているように静かで研ぎ澄まされていた。その揺るぎのない姿は絶対者の化身そのものである。小林秀雄も書いている「無限のもの、究極のものへの飢渇が絶えずゴッホを駆り立てていた」「絵はゴッホを駆り立てた大きな飢渇が強いた最後の手段であった」まるで万華鏡のように、どれひとつとして同じものはない数多くの自画像はどれひとつとして同じものではないにも関わらず全てがひとつのものを指し示している。

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 振幅の激しいゴッホの生涯を辿ることは、より多くの紙数を必要とするが、今回は「自画像」に限って纏めているのでゴッホにとって何故自画像を描くかについてのみ話しておきたい。父の後を継いで神と共に生きようと牧師になるために懸命に尽くしたゴッホだったが遂に任命はされなかった。ゴッホにとっては到底納得出来ないものだった。聖職に携わるということは組織の委員会等によって合否を決定されるものではなく天職として人間を超えたものから与えられると信じていたからである。これでは世間の就職と変わりないではないか。ゴッホこそ生来の激しい反俗主義者であった。当然父の仕事である牧師と父に対する深い尊敬が彼の考えを構築していることは間違いのないところだが、彼が見たロンドンやベルギー南部のボリナージュでの貧しい人々の暮らしが彼を捉えて放さなかったのである。ゴッホの強い感性は彼等と共にあって彼等の救いとなることを願わずにはいられなかった。この激しい宗教的感情こそゴッホの全思想を形作るものなのである。牧師になることを拒絶されたゴッホにとってその運命の糸は以外な形で用意されていた。十六歳で画商のグーピル商会への就職を世話してくれた伯父のセント氏はゴッホを最初に絵の世界へ目を開かせてくれた恩人であるが、下宿先の娘に手痛い失恋をして我を忘れたゴッホはまともに仕事をこなすことも出来ずに結局解雇される羽目になった。匙を投げた伯父だったが再びドルトレヒトの書店を紹介してくれた。この書店主プラート氏はゴッホについて碌に仕事も出来ないが勤務中にも関わらず聖書を手元から話さず、熱心に読み耽るゴッホについて同僚がいくら非難しても寛大に赦してくれ特別に好意を寄せてくれた。テオへの手紙の中で「たとえどんな境遇におかれても僕の中には父と同じような性質が芽生えてくるようだ」「僕は聖書を全て暗記したい。その言葉の光の中で人生を見つめたいのだ」この激しい神への帰依に書店主はむしろ商売を離れて圧倒されてしまったとしか言いようがない。その上下宿した部屋の壁に前の住人が忘れていった複製画にゴッホはひどく感動していた。そこにはレンブラントの「エマオの巡礼」が飾ってあった。絵のもたらす圧倒的な人間への影響力と、それを描き出す画家の高い創造主への傾倒に対してゴッホは毎夜その絵を見ては再び聖職者となるか、絵を描いて人々の救済に尽力するか二者択一に煩悶の日々を送った。遂にゴッホは決断した。「僕は聖書のもたらすものを手に入れたい。その全てを徹底的に調べたい、特にキリストについては全てを究めたい」ゴッホは更に困難な神学大学に入学するべく、もう一人の伯父が海軍造船所の所長をしているアムステルダムに赴き、そこに下宿しながら受験勉強に励んだ。しかしゴッホには決まり切った教科は苦手であった。神に辿り着く聖書以外頭に入らなかった。山程ある教科に埋もれてゆくうちに次第にテオへの手紙にはデッサンが書き込まれることが多くなっていった。学業を克服することが困難になってきた。ゴッホは挫折した。しかしゴッホの生き様に共感する牧師の一人の努力によってブラッセルの伝道委員会はもう一度機会を与えてくれた。ボリナージュの炭坑街の教会に六ヶ月の試験任用が赦され、そこでの実績によって本式の採用を決定することになった。ゴッホは狂喜した。着任すると神に魅入られたように、与えられた部屋も部屋着も遂にはお金さえもその貧しい炭坑夫や家族に与え、自分は隅の藁ベッドで寝起きした。人々はあまりの献身ぶりにとまどっていたがやがてその無私な一途さに心を打たれていった。それがいけなかった。教会は権威も威厳もなく全く救済するべき人々と同じ姿で聖職者が身につけるべき法衣すら身につけない疲れ果てた若者に伝道者としての地位を与えることを拒絶した。ゴッホには理解出来なかった。自分が神に仕える資格がないなんて考えられなかった。ゴッホは自分から教会を放逐した。心の中に大きく芽生えてきたものがあった。ゴッホは遂に教会への訣別とそして心の声に従うことを自分に命じた。その声とは「誰かがレンブラントを好きになるとする。勿論真剣にだ。そうすればそこには神がいることがわかる筈だ。偉大な芸術家や巨匠がその作品の中で言おうとした究極の言葉を理解しようとしたまえ。そこに神を見出すことだろう」とうとうゴッホは揺るぎない道を発見することが出来た。絵を通して神の存在を人々に伝えるのだ。それが自分の運命なのだ、と悟った。ゴッホはもう迷わなかった。いよいよパリに絵の勉強をする為に出発することになった。

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 パリに来ても相変わらずゴッホは貧しかった。生計の途は唯一テオから分けてもらう給金の一部しかなかった。テオにしても一介の勤め人にすぎなかった。モデル等到底雇えない。仕方なくそこらにある本とか花とか自分を描く以外なかった。自画像は自分を観察する良い測定器となった。何故描くか。ゴッホの心には千八百八十五年ヌエネンの父の教会の納屋をアトリエにして描いた一枚の絵が絶えず頭の中にある。それは父が死んだ時、父がいつも開いていた聖書である。ゴッホはその聖書の他に自分の読んだエミール・ゾラの「生きる歓び」を置いた。ゴッホの偽らない自分の気持を現していた。聖書の頁はイザヤ書第五十三章である。「彼は自ら懲らしめを受けて我々に平安を与え、その打たれた傷によって我々は癒されるのだ。彼は多くの人の罪を負い咎ある者の為に取りなしをした」小林秀雄の言う「無限のもの究極のものへの飢渇]とはゴッホにとってキリストに他ならない。彼は死ぬまで「多くの人の罪を負って」生きようとしたのだ。それ以外に彼のあれ程の無私は説明出来ない。それならば聖職の道を閉ざされたゴッホは何故フラ・アンジェリコやジオットやヒィリッポ・リッピの道を選ばなかったか。(勿論彼はプロテスタントであり教会からも排斥されている身であるから同じ道は歩めないが)それは明白に歴然としている。ボリナージュで明らかなように直接民衆の中にあって人々の手となり動く脚となって確かな手応えを求めているのだ。実感こそゴッホの求める世界である。そう考えてみるならば数々の異なるゴッホの自画像の意味するところが見えてくるであろう。ゴッホの自画像が訴えているものは祈りである。ひれ伏してあがめるのではなく、抱き締めて共感する為にある。もう一度一枚、一枚目を凝らして見つめてほしい。そこにゴッホの真の姿が浮かび上がってくる筈だ。その一枚こそ私が長い間探している自画像なのだ。もう一度どうしてもその自画像に出会いたい。そこで私にとっても生涯に渉る旅路は終わるのだ。ところで千八百九十年オーベルで描かれた「最後の自画像」を見てほしいのだ。この絵の背景は糸杉のように渦がからまるように全体を被っている。顔は痩せこけているがひ弱ではない。むしろ尖った頬骨とへこんだ眼窩は意志的でさえある。とても最後といえるような様相は示していない。そうです。この絵はかえって「生きよ」と告げている。ところがこの絵に符号する手紙を読んでみよう。「色々とたくさんのことを書きたいという気持もあるのだが、望みは去っていて書いても仕方がない気がする。僕達は僕達の絵に語らせる以外に何も出来ないんだ」ゴッホはこの手紙で「書いても仕方のない気がする」とはっきり「断念」している。更にこの手紙はゴッホにおける最後の手紙になっている。意気阻喪とか気力を失ってとか激情のあまりとか色々気持の整理がつかないままに拳銃を手にしたのではなく確信的に自ら生命を断ち切っている。そして最後に「絵に語らせる以外に何も出来ないんだ」と手紙を結んでいる。ゴッホは自分の全ては「絵」の中に生きている、と告げている。そうなるとこの「最後の自画像」はゴッホにとっての最後の「自画像」ではない。この違いは何を意味しているのか。私はこのことを解き明かしたい、と思っている。
    参考文献 「近代絵画」     小林秀雄        新潮社
         「ゴッホの手紙」   硲伊之助        岩波文庫
         「ヴァン・ゴッホ」  アントナン・アルトー  筑摩文芸文庫
         「ゴッホ」      パスカル・ボナフー   創元社
         「ゴッホの手紙」   木島俊介
         「現代世界美術全集」             集英社
         「プーシキン美術展」カタログ         朝日新聞社
         「ゴッホ展」カタログ 壱カラ五        東郷青児美術館
2006.02.23



吉野葛とゴディバ

 二月に入るとさすがに山積した仕事の処理に追われて慌ただしい毎日を送っている。そんな時に昔の仲間から思いがけない贈り物があった。チョコレートのゴディバである。ベルギー製である。菓子類を特別好きというわけではない。日頃嗜んできた秋田の「新政」広島の「白牡丹」が医師から禁止されて以来、嗜好品には興味を失っていた。ところが昔スバルR360を友人等と解体した程の機械好きであるから、世界ケーキ職人のコンクールで優勝した京橋の杉野さんの生き物のようなチョコレートの肌が出来上がる工程を見ていて鳥肌がたった。職人の手仕事程その国の文化の高さを示すものはない。昨日から始まったトリノの冬季オリンピックの開会式にもイタリアが誇るフェラーリがその場で組み立てられ式場を駆け抜けるシーンが若者の祭典に花を添えた。そしてパバロッテイが「トウランドット」を唱い挙げた。願わくは今世界の各地で噴きあがっている紛争には毎日暗澹とする思いだが、暫くの間黙々と自分の仕事を守って文化を届けている人達について目を留めていただきたい。さてゴディバだが、ベルギーはほとんど知らない。御菓子よりもあの高潔なビンセント・バン・ゴッホが画家になる前に余りの貧窮と惨苦の貧民窟を訪ねて聖職者になろうと決心する由縁を知っているだけである。その国からゴディバである。食べてまず驚嘆する。梅干し程の固形から発散するほのかな甘さは香気を放って口中にとどまっている。その保たれている長さには目を丸くする他はない。その歯ごたえといったらステーキも負ける程だ。噛んでも噛んでも後から後から微妙な甘味への想いが立ちのぼってくる。幸せはいつでもアッと言う間に消えるものだがゴディバは充分堪能させるまで口の中にある。やがて甘やかな酸っぱい余韻を残して消えてゆく。これ程の名品に今迄出会ったことがない。日本についても言っておかなくては片手落ちだろう。日本の素晴らしさは季節に感性がほとばしるその絶妙さにある。これは世界に絶無のものである。例えば茶席において初釜の時にのみ賞味するわらび餅のように。これは特殊に過ぎるが吉野葛は日本の絶品である。西行も愛でている。吉野は余りに遠いので京都へ行った時には四条通りの鍵善良房で充分味わえる。一つだけ思い出に残るのは平泉へ行った時の松栄堂の「田村の梅」である。田村右京太夫を偲んで青紫蘇に越し餡と梅をくるんだ名品である。平和だからこそ味わえる幸せである。
2006.02.11



或る映画監督の死

  一月二十四日付きのどの新聞も大見出しで昨夜の堀江貴文社長の逮捕を報じていた。私もライブドア関連で三大紙の他日経、産経、東京新聞をわざわざ自転車を飛ばして国立駅迄買いに行った。彼の功罪は時代の光と闇を照らしている。家賃二百二十万の六本木に住み、一枚二千円の名刺程の焼き肉を若い愛人と何十枚もむさぼり食う青年は東京拘置所の三畳の独居房でどんな夢を見ただろうか。挫折は人間を鍛え上げる。立ち直る姿をこそ大衆に示して欲しいものだ。きっと、金では買えないたくさんのものを得ることだろう。
 同じ日の朝日新聞の片隅に一人の映画監督の死を報じていた。ちなみに買い求めた他紙を調べてみたが「みかんの花咲く丘」の川田正子は全て載っていたが、監督の名はなかった。だが私にとっては忘れがたい一人なのだ。この人の名はアンリ・コルピ。上映された年は東京オリンピックが開かれ女子バレーで金メダル、円谷幸吉がマラソンで銅メダルを取り日本中を沸かせた年だ。上野では「ミロのビーナス」がフランスからやってきて私など延々と三時間近く行列に並んで見に行った。映画の題名は「かくも長き不在」。小粋な女の不埒な愛を書く「悲しみよ今日は」のフランソワーズ・サガンと違って大人の愛の断絶と再生を書く「二十四時間の情事」等のマルグリット・ジュラの脚本で、しかもこの一本しか長編は輸入されなかった。主演はアリダ・バリ。「第三の男」で墓地の並木道を、待ち構えているジョセフ・コットンには見向きもしないでバリは深い庇の帽子を被って立ち去って行くラストシーンに、女性の訣別の非情さと占領下のウイーンの非情さと重なって鮮やかにキャロル・リードは時代を写し取った。一転してこの映画でバリは、出征した夫を待ち続けるパリの裏街の健気な喫茶店主を演じた。しかも再会した夫は捕虜になり拷問によって記憶を失い浮浪者になっていた。愛を取り戻そうと昔の幸せだった日々を語って聞かせるが、夫は思い出せない。立ち去って行く夫へ必死に名前を呼んだ。夫は立ち止まった。もしや思い出したのでは、とバリが駆け寄ろうとした時夫は静かにゆっくりと両手を挙げて「無抵抗」の意志表示をした。コルピは丹念に戦後を生きる寡婦のつましい暮らしを映しながら、その女性に襲いかかった戦争の悲惨を声高にではなく、呟くように人々に訴えた。南仏マントンでの八十一歳の死だった。
2006.01.28



ささやかな至福の時

 文化振興会議の新年会が始まる国分寺市役所第一庁舎地下一階の食堂は既に暖房の電源は切られ、広いフロアは寒々としていた。私も防寒コートを羽織って席についた。一月の午後も八時を廻ろうとする時刻では誰もが早く家へ帰って温かい居間でくつろぎたい心境であったろう。今日の会議だけは後で新年会があるので早く切り上げようと全員が誓い合って始めたのだが、やはり議論に熱中して定刻には終わらなかった。今年で二年目の正月を迎えたが芸能文化を担う各界の長老達が膝を詰め合って文化振興の議論を重ねてきた。本日(一月十二日)ようやく今年六月の市議会には上程したいと、条例の全体が見渡せるところまで辿り着いた。始めた頃は雲を掴むような頼りなさだったが、この頃では互いに議論が伯仲する場面もあった。会えば何処にでもいる顔立ちだがそれこそ三十年、四十年の苦節を生き抜いて今日に至った地域の文化人達である。それを束ねて会議を維持する文化コミュニテイ課の職員の苦労も大変なものである。よく此処まで辿り着いた。 なんとか文化の果実を次の世代に届けたいと念ずる文化人の自負と誇りが続けさせているのである。しかし、一月の寒さは身体を縮み上がらせた。言葉が早口になり焼酎のお湯割りが次々と廻ってきた。皆な声を大きくして寒気を追い払った。
 突然、木村智行さんがバイオリンを取り出すと「早春賦」を引き出した。一同は沈黙して耳を傾けた。次々と曲が弾かれその度に拍手が湧いた。目の前の生の音色が身体を暖めた。続いて芳賀岳淳さんが良寛の「無心」を声も届け、とばかり歌いあげた。ビュウ、ビュウと海風が聞こえてくる。越後柏崎の日本海に向かって座る良寛像が浮かんできた。詩吟の独特の節回しは五木寛之が日本文化について語る「暗愁」の調べに乗せて心に響き会い感情の起伏が直に歌に乗り移る。声に共感して寒さを忘れていた。続いて遠藤義博さんが尺八を吹き鳴らした。この尺八は地無し延べ長管と言い昔、虚無僧が家々の門付けをして全国に祈りと音色を深めた魂の道具である。この音色には、いにしえへの遙かな想いと鎮魂の響きがこもっている。全てが自然に醸し出された即興のライブの競演になった。庁舎の地下の寒々とした食堂が一瞬にして文化がもたらす偽りのないミュウズの殿堂に変身した。芸能文化に携わってきた職人達の至福の世界がそこに立ち上がっていた。会議で渋面を作っていた面々も一気に弾けて盛大な拍手が沸き上がった。茶道連盟の中村綾子さんも舞踊の花柳鍛冶鳳さんも宝生流会長の堀内征一さんも輪になって唱和した。市側の会を準備してくれた内藤課長、太田さん、清水さん、福島さん、大平さん、秋山祐司さんいつも本当に御苦労様です。感謝。
2006.01.19



平成十八年の初夢

 昨年暮の余韻がまだ続いている。戦争前なら何処の家庭の部屋の天井にも下がっていた白色電灯の二股ソケットを実用新案して、一代でナショナルを世界の企業に育てた松下幸之助さえ、もし若返るなら今の全財産を失ってもいいと言った。しかし時は再びは戻らない。人は誰も等しく一刻をこの地球に生きて去ってゆく。そんな人間の運命においてもとりわけその命を惜しまずにはいられない人がいる。吉田松陰である。昨年、詩吟教室で聴いた少年達の天使のような済んだ高い声がいつまでも耳に残り、その声のイメージがどうしても私は松蔭を思い出して仕方がない。こんな汚濁の世の中にあってどうしてあんなに松蔭は真っ直ぐに澄やかなのか。その無私の精神にただただ胸が熱くなるのだ。
 何故、初夢か。私達は自分達の幸せにすら心許ない思いをして生きている。自分のことに汲々と生きている。それでなくとも昨年は目をふさぎ耳を覆いたくなるような出来事が数多く起きた。その中にあって我を捨て、ひたすら国の行く末の為に身を捧げた松蔭の精神に私は夢を預けたいと願う。

   身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂

 その松蔭の志を継いだ若者達は日本の近代の扉を開いた。今、日本の先行きは七百五十兆円を超える負債をかかえており、昨年からは人口も減少に転じた。正に国事多難の日々にあって、私事を捨て国事に身を捧げ、国を憂う心を見失うまいとこの新年に念じたい。
2006.01.02




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