こくぶんじブログ 〜内田博司〜 本文へジャンプ
フエルメール

 哲学者アリストテレスは「生活なんて召使いに任せておけ」と言った。私は暮れの一日、一日をまるでコマネズミのようにあくせく生きている。自分の人生は消しゴムを使えば全て消えてしまう程度のものだ。そんな私でもフエルメールが折角日本に来ているのなら観に行きたいと思ったらなんと偶然に月曜日にスケジュールが空いた。美術館は測ったように月曜が休館だが国立新美術館は月曜もやっていてしかもフエルメールの最終日だった。この美術館を設計した黒川紀章は今年都知事選と参議院選にまで出馬したが落選してその後亡くなった。前面を全てガラス張りの曲面で構築した黒川はオランダにもゴッホ美術館を設計したが建築に夢を載せた華麗な一生だった。その美術館にたった一枚だけの「牛乳を注ぐ女」を展示するフエルメールは今世界中にもてはやされている。デルフトの街から半径一キロを一度も越えたことのない生涯でしかも三十七点しか描かなかったと言われているが、私の観るところその内の二点は間違いなく贋作だ。同時期には「夜警」で有名なレンブラントもいるというのにフエルメールは少しも揺るぎなく自分の絵だけを見つめている。商売としていた為に注文主に応じて題材は多彩だ。しかも腕は達者なので謎解きのように仕掛けも手が込んでいる。まるで近くに住む好事家のように安心してみていられる。だから私は何気ない巷の風景を切り取った「小路」が好きだがアルチザン的手法に酔いしれた愛好家は世界中に群がってフエルメール崇拝が伝幡する。そうした一時の人気は好きではないがそれでもこの「牛乳を注ぐ女」は静かに暮れの一日にゆっくりと時の流れに身を任せて見飽きることのない至福の一品であることに変わりはない。柔らかな陽差しの中に浮かぶ女性のなんと美しくたおやかなことか。水差しから滴る牛乳は静止画であることを忘れる。流れているのだ。まるで魔法の泉のように尽きることがないのだ。そこにフエルメールの真骨頂がある。生活は砕かれたパンと共に連綿と続くのだ。足元の足温器も壁に掛かった柳籠も人々の幸せも悲しみも皆んな呑み込んで流れてゆく。胸元のガッシリした女性はその全てを知らぬげにひたすら牛乳を注そぐ。見続けていると涙が溢れてくる。しかもこの女性のまとったスカートは当時の黄金より高価といわれた東洋のラピスラズリを用いて描かれているのだ。まさにこの絵を眺めているだけで人生は生きるに値する。
2007.12.28



白バラの祈り

 平成二十年一月号の演劇誌「悲劇喜劇」に民芸公演「白バラの祈り」で主役を演じた桜井明美がその時の「日録」を掲載する。公演に当たって新聞各紙が稽古風景や演出者等の意見を載せていたが、その中で桜井の発言が飛び抜けていたので私も雑誌発行前に書いておきたい。桜井はこのように言っていた「この劇に関してどれ程うまい演技が出来たとしても満足なものにはならないだろう。芝居の真実を如何に観客の心に届けることが出来るか、それが大事なことだと思っています」ナチスに反対するビラを撒いて五日後にはギロチンで処刑される二十一歳のミュンヘン大学女子学生ジョフイショルを演じた桜井は初舞台もナチスによってゲットーへ追いやられ民族の絶滅作戦で死んでゆくユダヤ人少女アンネを「アンネの日記」で演じた。かって日本もそのナチスドイツ、イタリアと枢軸を組んで世界を相手に戦い破れた。国家が自由と自律を失い軍事力によって劣勢の回復を図ろうとする時、国民は一部の狂信的な軍人と戦争で利益を得ようとする企業によって抑圧され蹂躙される。桜井はその被支配階級の少女と神の摂理を信じて圧政を怖れなかった大学生を真率に演じ切った。特にナチスの暴虐に対して徹底的に戦おうとした兄と違い幸福な家族に囲まれて信仰に篤く平和を求めるゾフイが、保身の為にナチスに協力し権力を持つ優越感から助けてやろうと申し出る尋問官モーアに対して「あなたが救おうとしているのは私じゃない御自分の罪悪感です」と恐怖に打ち克ちながら、その偽善を暴く女性に変わってゆく姿を誇張することなく静かに演じた桜井は見事に自分に課した命題をも凌いで余りあった。演出の高橋清祐も民芸の貴重な伝統である時代と向き合い拮抗して民衆の先頭を歩もうとする精神を立派に継承した。こうした国家の不備を内部から変革しようとする精神を育成する土壌の希薄な日本では現在においては民芸が先輩達の築いた力を最も蓄積している。しかし民芸自身も現状では決して強固とは言えない。高橋はそうした状況の中でその伝統を愚直にも貫いた。よくぞ持ちこたえた。その根底にあるものは強い戦時に対する高橋の原体験と戦争反対の意識が一途に芝居を引っ張ったといえる。先の木更津市商店街に生きる人々の興亡を描いた「待てば海路の」では硬直したように図式的で実際にバブルを生き抜いた私達の涙涸れ骨が鳴るような酷薄な経験からしたら余りにも御都合的で納得出来るものではなかったが、この作品で見事真骨頂を見せた。その位演出者の魂魄の気合を感ずる作品となった。それ故にどうしても苦言を呈したいことがある。シュミットの存在だ。幕の出だしからあたりを嗅ぎ分け探るような胡散臭さい芝居はこの作品の意図を著しく毀損させた。ナチズムを支えた大きな要因は冷酷な秘密警察の存在と市民からの密告である。かっての日本もそうであったようにこの二つがドイツを打ち砕いた。その体現者であるシュミットの恐ろしさは大袈裟な仕種よりも、何喰わぬ顔をして市民の中に隠れ何喰わぬ顔をして国家を侵蝕する細菌のように、何処へでも湧き出る目立たない存在として表現すべきではないか。そしてその真の警告はどんな人間の中にも存在し得る可能性として人々に訴えねばならなかった筈だ。この恐怖こそ二幕四日目の「一番恐ろしいものは…」に始まるナチズム告発を淀みなく切々と訴えるゾフイの姿に結集されなくてはならなかったのではないか。しかし、この崇高な場面を桜井は少しの破綻もなく明晰にシッカリと観客に覚醒を促すように怜悧にそして女性らしくたおやかに訴えた。いい芝居だった。
2007.11.09



孤軍、木村光一

 一通の手紙が届いた。地人会からだった。やはり新聞報道の通り解散の通知だった。主宰者である木村光一の体調が原因とあったが詳細を知りたかった。簡単に聞き流せなかった。木村は地方で演劇を含む文化活動を続けている多くの人にとって遠く輝く星である。世間は演劇といえば蜷川幸雄や岡田利規、本谷有希子を思い出すだろう。古くはキャラメルボックスか。しかし木村光一は自ら劇団を持たず演目毎に既成劇団の中から適材の役者を集めて理想の劇を立ち上げるプロジュウサーシステムの先駆者である。同時に活動を持続させる為の経済的基盤にも心を配った体制を創り上げていた。そこに地方からの瞠目を集める由縁があった。時ならずして朝日新聞に地人会の特集記事が載った。解散の概略がわかった。孤軍奮闘の姿が浮かび上がった。劇団を持たなくとも世帯を張ってゆく苦労は並大抵ではない。採算を支えた地方公演の母体である演劇鑑賞団体の衰退が木村の堅い志を挫き、更に腰痛が拍車をかけた。文化の多様性が演劇への若者の吸引力を高める前に団体会員の高齢化が先になり交代が円滑に進まなかった。それでも商業的な志向に迎合すればなんとか持続可能な程地人会の人気は高いのだが、それでは理想を掲げる木村の志が赦さない。そうした苦渋の決断が突然の解散発表に繋がった。私達地方人にとっては自らの身を引き裂かれる程の悲しみであり痛手なのだ。思い返せば地人会との最初の出会いは日本の何処かで二日に一回は上演されている程知られた朗読劇「この子たちの夏」であった。木村の志はここにも生きている「僕等が忘れていた広島、長崎での子供達、母親達の証言」だから収益は全て被爆者へ寄付されている。そこには演劇人というよりも平和の伝道師としての高潔さが滲んでいる。こうした気概がアーノルドウエスカーをして「全ての劇作家がそれぞれの木村光一を必要としている」と言わしめた。木村の功績を挙げるとするならばまずウエスカーを日本に連れて来たことだろう。時代の気分を真っ直ぐ演劇に結びつけ多くの若者を芝居に惹きつけた。時代と向き合い人間とは何か、を芝居作りの基軸に据えて木村は長い道のりを歩んできた。その中から宮本研、井上ひさし、水上勉、山田太一等の作家と組んで数々の名作を舞台に載せた。このコラボレートは他の劇団の追従を許さない地人会のブランドとなった。円熟はまだまだ先だ。第一日本で最も親しいチェホフをまだ一度も演出していない。彼とどう対峙するか、楽しみにしているのは私一人ではあるまい。更に忘れてならないのは地人会が公演の度に発行するパンフレットである。たかが冊子だがこれ程地味な作業に、特大の労力を懸けて公演の貴重な記録とするには特別の思い入れがなくては出来ない。どんなに素晴らしい芝居も幕が下りれば後は人々の胸に残るだけで跡形もなく消えてゆくのが宿命である。木村は冊子をその場限りで集めた一人一人の役者とスタッフと観客に一期一会の契りとして差し出しているのだ。ここにも木村の演劇に懸ける熱い思いが託されている。ともあれ木村は来年半ば迄のラインアップを発表していた。特にこの十二月に予定していたアーチボルトマクリシュの「JB」は昭和六十二年三月号の「悲劇喜劇」において木村が論文を掲載している程の因縁の一作である。これだけは木村にとっても上演せずに終わることは痛憤に値いする口惜しさであろう。私は今迄の長く熱い感謝を込めてどうしてもこの一作をもって小休止として頂きたい、と木村氏に懇願します。この雑文をお読みの皆さんも是非地人会への応援を切にお願い申し上げます。
2007.10.09


蜷川と高校演劇

 蜷川幸雄が五十五歳以上の中高年を集めたゴールドシアターは昨年迄に二回の公演を打ち上げた。二回目は清水邦夫の「鴉よ俺達は弾を込める」であった。全くの素人を使って何故この思い入れの深い作品を取り上げたのか。清水と共に生き抜いてきた情念を今再び蘇みがえらせようとしている。蜷川は老兵達の劇団を使って何故投げかけ問い直そうとするのか。そして今年六月「船上のピクニック」を打ち上げた。作家は清水ではなく岩松了だった。それを観て私は不覚にも陶酔の涙をこぼした。芝居の醍醐味があった。そのことが何故か癪だった。理由を明瞭に問い返せなかったからだ。四十二人の登場人物に全てセリフを用意する程群衆の劇が主眼だった。洋上を疾駆する船の上が舞台である。そこで起こった感動が今もって何故かわからないのである。それなのに引き込まれて圧倒され興奮した。解き明かしたいのに答は出ず苛々は募った。そして八月も終わろうとした頃何気なくテレビを点けて高校生達の演劇コンクールを見た。どの作品も真剣で初々しかった。その中で岐阜県立岐阜農林高校の作品が最優秀賞を受賞した。「躾、モウと暮らした五十日」という牛を飼育し別れる迄の実習を扱った作品である。出来映えは群を抜いていた。地方の兼業農家の実状を丹念に記録してゆくような作風であった。この作品を見終わって突然蜷川の謎が解けた。蜷川も時代閉塞の中から道を切り開いてきた。今、蜷川は芸術家として世界にも名をなしている。頂点に立って始めて蜷川は自分の老いを自覚し頭が壊れない内にどうしてもやっておかねばならない或る事に気が付いた。「船上のピクニック」の激しいモブシーンはその予兆を示していた。だがかって蜷川が時代と拮抗した怒りがそこにはなかった。そのことがわかった。私は初めて蜷川はもう一度動くに違いないと確信した。中高年の演者はヘトヘトになるまで演じた。観客も酔った。良い出来だった。しかしここでは蜷川の答えはまだ見つからない。何故なら彼岸へは人は一人で歩いてゆかねばならないからである。もう少し待とう。蜷川よまだまだ死なないでほしい。岐阜県立岐阜農林高校の芝居を見て蜷川への問いが天啓のように降りてきた。この演劇部は中島充雅先生と副顧問の宮川秀文先生と二十五人の生徒達である。演出を担当したのは三年生の近藤麻央さんです。全員で何度も討論をして作品を練り上げた。地区予選から始まって遂に島根県で行われた全国大会でも四校に残った。そして遂に八月の国立劇場最終公演まで勝ち取った。この芝居を見て一番感じたことは、日本の現実における二重構造である。地方の都市で真剣に生活に取り組んでいる姿と毎日テレビや新聞に映し出される陰惨な事件との余りにも違いすぎる隔絶感である。この国は果たして再生出来るのか。岐阜農林高校演劇部は日々の暮らしの中に生きることの原点を探った。この生徒達の取り組みはゆっくりだが確かな希望を抱かせてくれる。この若者達に日本の未来を託そう。私は戦後のイタリアに興ったネオリアリズムの台頭を感じた。その当時ビットリオ・デシーカ監督は無名の人々を使って「自転車泥棒」を作った。仕事の道具である自転車を盗まれて朝からローマ市中を探し回った男は見つけることが出来ず遂に自転車を盗もうとして市民に袋叩きにあってしまう。一部始終を見ていた子供は屈辱と埃にまみれて傷ついた父の手をとってローマの雑踏に消えてゆく。岐阜農林高校の芝居も解決は示せない。むしろその先には果てしない徒労と絶望が待っているかも知れない。それでも傷つき痛んでいる者に投げる眼差しはあたたかい。ジックリと社会の実相に目を向けて揺るぎない道筋を見つけた皆さんに遠くより熱いエールを送りたい。
2007.09.08



南風洋子の死

 前回の「残暑厳しく」を書く迄四ヶ月の空白があった。その間綿々と死に直面した人間についての記録を調べていた。ひたすらその作業に没頭した。それでも定期の会合や日常の事務は欠かせないので折を見つけては処理してきた。しかし頭の中は死者の姿が繰り返し浮かんでは消える四ヶ月であった。暑さと共にやっと仕事の終局が見えた頃京都送り火のテレビを見た。その炎は夜の闇に舞い上がり静かに融けていった。死者を送る盂蘭盆会だからである。そして「残暑厳しく」を書き終えた日の朝日新聞の夕刊で南風洋子の訃報に接した。余りにもそれまでの四ヶ月の仕事と符合していたので偶然とは思えなかった。何故なら六月の末に新宿サザンシアターで「林の中のナポリ」公演を観ていたからである。その時の印象が蘇った。少しも風姿に翳りはなかった。むしろ相手役の伊藤孝雄の方が美形故にやつれていた。それでいて挙措に惜別の余韻が残った。能の仕舞のように立ち居に潔さがあった。私は今にして思う。作者の山田太一も演出の丹野郁弓も南風の覚悟を知っていたのではないか。それでなくてはこれ程舞台で鮮やかに見得は切れない。といって歌舞伎とは違うから一人派手な動きをしては新劇のアンサンブルではドラマの流れを壊してしまう。それでは芝居が台無しになってしまう。仕立てる者が必要なのだ。丹野は心を砕いて先輩の為にソット場面を用意した。南風はそこに宝塚時代とも全く異なる挙措で観客に向かって生涯の訣別を告げたのだ。その時は気付かなかった。だが今報に接してあの芝居は南風が華をつくった。私も多くの友人をガンで失った。ガンは人生に立ち向かう者に襲いかかる。南風はガンと知って終戦時の朝鮮からの引き揚げを思い出したに違いない。南風は前にも山田にその時代を扱った「二人の長い影」を書いてもらっている。引き揚げの経験は南風の人生を規定した。そこには夢に描く人生はなかった。悲惨とおぞましい現実から出発した人生は舞台という虚構の世界によって人間の復権を目指そうと願ったのだ。それには民芸にいい先達がいた。久保栄がおりそして滝沢修、宇野重吉がいた。宇野も遠くない自らの死を知ってトラックに幟を立てて日本の村々を巡った。自らの死を覚悟した時、まだ確かな精神と動かせる精一杯の肉体を駆使出来る内に最高のスタッフによって作られた役を演じて人生に別れを告げる。望み得る最も贅沢な人間の終焉ではないか。人は死ぬ。非業の死もあれば大勢に見送られる死もある。しかし、いずれも灰となり土に還る。人は晩節をこそ飾るべきである。南風の死はそれを教えている。
2007.08.26



残暑厳しく

 立秋を過ぎて日本列島は猛暑の洗礼を浴びた。岐阜県多治見市では40.9度を記録した。人間の体温より熱い地球の温度は狂気という他ない。その因果を探ると人間社会が生み出した様々な環境破壊にあるとすれば人類の滅亡の黙示録は既に始まっていると言っても過言ではない。そんな時代だからこそ文化は救済の鍵を握っている。照りつける炎熱に汗を滴らせて私達はなす術を知らない。そんな時テレビはしばしの慰楽を届けてくれた。室町時代から続く京都五山の送り火である。京都市民が連綿と人々の息災を願って夏の一日、盆地を囲む山々の山腹に妙法や舟形や鳥居形、大文字を炎で飾る。夜の京都を彩るその火は生きとし生きる者の鎮魂と祈りに満ちている。市民の長い期間に渉る準備も炎は一瞬にして燃え尽きる。その消し炭を家々に持ち帰って門口に吊し、一年の無事を願う祭は遠く応仁の乱にまで遡れば、なんとささやかな人々の平和への思いを伝えて余すところはない。私達はもう一度この思いを噛みしめてみなければならない。
2007.08.20



コペンハーゲン, コペンハーゲン

 たとえその人が平凡な人間であると自認する人でさえ、生涯のうちに十回程は記念すべき忘れがたい日々というものを持つであろう。その特別な日がもし歴史に刻印される程の記念すべき日であるとしたら人はどの様な思いで、その日と対峙するであろうか。マイケル・フレインは現実のその日を捉えて「コペンハーゲン」を書いた。フレインの作品は深く重い。そして厄介である。「ノイズオフ」というコメデイもあるが私は観ていない。ヒトラーによって蹂躙された東欧諸国と歴史的和解を遂げたドイツのウイリー・ブラントが、側近のスパイ醜聞によって首相を辞任する事件を扱った「デモクラシー」もそうだが<br />フレインは戯曲を書く度に厖大な「あとがき」を書いている。それ程に難解で複雑だがその故に惹きつけてやまない題材を扱っている。ことに「コペンハーゲン」は著名な物理学者が主役だから難しい学術用語と、その研究テーマが礫のように飛び交いながら進行する。それだけで気分が萎えてくる。しかしわたしは強い衝動に駆られてこの一文を完成させなければ、と机に向かっている。そのわけはバブル以後ことごとく価値体系が綻びて、新しい秩序を構築出来ないでいるうちに今の日本がますます短絡的に虚構の大国になろうとして闇雲に勝ち組の幻想に取りすがろうとしている危険な誘惑に、現代が満ちているからである。そんな時代にあって誠実に人生を生きようとする余り、その度に挫折を繰り返し壁にぶち当たりながら、それでも人から安全と保証された価値等に見向きもせず手探りで自ら価値を見い出そうと不器用に生きている友人に対して私なりに応援をしたいと願っているからである。その友人も磁性流体という難しい分野に苦闘している一物理学徒である。だからといって私が付け刃のようなにわか勉強をしたところで得心はしてもらえないであろう。私は私なりのやり方でこの作品に取り組んでみたい。<br /> おそらくフレインはベルナー・ハイゼンベルク「部分と全体」(山崎和夫訳みすず書房)のこの文章に着目したに違いない。「私の記憶が正しければその旅行は千九百四十一年十月に行われた」長い記者生活の経験は真実の核心に対する嗅覚が鋭く働く。ハイゼンベルクは二十三歳で、その年ノーベル物理学賞を受賞したニールス・ボーアをコペンハーゲンの研究所に訪ねいっぺんに十六歳の年の差を超えて親交を結べる程の才能に溢れていた。そして二十六歳で「不確定性原理」を発表してライプチヒ大学の教授に迎えられている。この優れてはいるが野心満々の青年に対して学究肌のボーアと、その仕事を支えた妻のマルグレーテが三人共既に鬼籍に入った世界からこの舞台は始まる。ハイゼンベルクの手記は、先の文章の次ぎにこう続いている。「私はニールスをカールスベルクのかれの私邸に訪れたが危険なテーマについては夕暮れ時彼の家の近くを散歩した時になってやっと切り出した」この「危険なテーマ」とは何か。これは二人がその時背負っている人生の重さによって変わってくる。この年千九百四十一年にはハイゼンゲルクは既に自身もノーベル物理学賞を受賞し、ドイツはヒトラー政権がベルサイユ条約を破棄してチェコを併合しフランスをも降伏させソ連へも侵入して第二次世界大戦が遂に始まった年であり、軍事における科学部門の中枢にいた。ボーアの母国デンマークも既に占領されボーアも厳しい監視下に置かれていた。その二人が盗聴マイクを避けてわざわざ肌寒い北欧のコペンハーゲンの郊外に散歩に出たのであった。ここでフレインはボーアの妻マルグレーテを登場させて厳格で高次な現実論の狭間に、野心とか優越感とか吐息とかを吹き込んで学者の背後にひそむ人間臭い偏執をあからさまにしてゆく。それでもこれ程の学者がわざわざ家を抜け出して寒空の中で、互いに生死を賭けて対峙した内容は、後世の我々にとって固唾を呑む程の期待を抱かせる。既にアインシュタインは千九百三十三年ヒトラーが登場してまもなくアメリカに亡命して日本に落とした原爆製造計画の具体化をルーズベルト大統領に進言している。原爆はその威力の脅威と共に戦争の帰趨を握っていた。ユダヤ人であるボーアはその学識をもって英国に通じていた。その時ヒトラーの下で実権を握っていたハイゼンベルクの訪問はたとえかっての弟子と雖も身も凍るような戦慄を覚えたであろう。後年、その脅威が無くなった戦後においてもマルグレーテはハイゼンベルクに対して決して好意的ではなかった。ハイゼンベルクの本心は一体どこにあったのであろうか。ヒトラー・ドイツの為に連合国側の製造計画の進捗度を探りたかったのか。そんなことはドイツ高官となっているハイゼンベルクに対して、そして我が身を守る為にもボーアは決して答えはいないことは彼もわかっていた筈なのに。ボーアにしても互いにとってこの上ない危険を冒して訪ねてくるハイゼンベルクの本心を測りかねていた。ボーアはまずハイゼンベルクが果たして原爆製造の鍵を握っていた限界質量について知っているかどうか学者らしく直截に切り込んでいった。これは爆発の連鎖反応を維持出来るかどうかを判定する核分裂性物質の総量を指している。ハイゼンベルクは今は忘れたが会議の議事録には記録されている、と答えている。これをもってマルグレーテはハイゼンベルクのことを目立ちたがりやだけど決して爆弾の知識などなかったのよ、と揶揄している。「千の太陽よりも明るく」の著者ロベルト・ユンクは始めハイゼンベルクの擁護の立場をとったが後になってその立場を否定した。トマス・パワーズは「何故ナチスは原爆製造に失敗したか」の中でハイゼンベルクを高く評価した。すなわち体制の中枢に入って意図的に計画の推進を遅らせナチズムに加担することを拒否したのだ、と。ヒトラーの自殺後直ちにイギリス諜報部は、戦後における自由主義国と社会主義国との冷戦体制を予測してソ連に捕捉されないうちにハイゼンベルク捜査網を欧州全土に敷き探し出し武装突撃を行って逮捕しイギリス本国に連行している。その尋問でハイゼンベルクは製造の実体は知らないと自白しているが、拘留された状況での証言など保身の為に信用性は疑わしい。それではフレインはどの立場をとったのか。フレインは千九百四十一年アメリカに亡命したフリッツ・ライヒというユダヤ人科学者の証言を採用している「ハイゼンベルク自身は上手くいった場合の悲惨な結果を怖れてこの研究を出来るだけ遅らせようとしている」と。それでは実際の劇を覗いてみよう。

 ボーア「細心の注意を払った何気なさで彼は用意していた質問を切り出す」
 ハイゼンベルク「一物理学者に原子力エネルギーの実践的活用を研究する道徳上の権利はあるのでしょうか」
 マルゲレーテ「大衝突」
 ボーア「わたしは立ち止まる、彼も立ち止まる…」
              「コペンハーゲン」小田島恒志訳、劇書房

 二人は戦前に共に来日している。ことにボーアは千九百三十七年湯川秀樹が京大で中間子論を発表した直後夫妻で来日している。私が今最も興味を引かれるのはこのボーア、ハイゼンベルクが発展させた「量子力学」に対し終始反対したまま世を去ったアインシュタインの証言を是非聞きたいと思っていることである。
2007.04.17



桜咲く

 三月二十日東京が全国に先駆けて開花宣言をした。平成四年以来十四年振りのことである。花見では大阪造幣局が品種も多くそれこそ百花繚乱として楽しむには一番だが、名古屋城の大島桜も孤高を保って愛おしい。勿論醍醐の秀吉の桜も見事だがこの頃思い出すのは奥州角館で観た桜である。武家屋敷もさりながら檜木内川に拡がる桜のトンネルは花に埋もれて一瞬正気を失うか、と思われる程桜の生気に吸い込まれる。満開の桜は何故か妖しく人を誘そい込む。心の底に充たされずにしまいこまれていた夢や欲望が世間体や常識の抑制をはね除けて飛び出してくるような幻想に襲われる。自由に生きたいと思う心が火花のように弾けそうになる。そんな狂おしい酩酊が心を浸すのだ。桜を観るといつもそんな気にさせられる。そこで思わぬ人に出会った。染織家の志村ふくみ氏である。志村氏は本居宣長の「玉かつま」を引いて桜についてならこの文に尽きると言っているが、永年染色と苦闘している経験がいつしか自然に抱かれ自然に沿って生きることの豊かさを伝える文章に接して、この人こそ人生の達人ではないかと畏敬する一人である。そんな氏でさえ朱を織り続けていると狂ったようになり織り続けることが出来ずに寝込んでしまうとこの間「日曜美術館」で語っていた。自然は美しくそして人の胸奥に火を点ける。国立の大学通りの桜もそろそろ咲き始めるだろう。桜はやはり日本の華だ。
2007.03.24



アカデミー賞

 第七十九回アカデミー賞授賞式が二月二十五日ロスのコダック劇場で開かれた。今回は女優助演賞に菊池凛子「バベル」がノミネートされたり、クリントイーストウッドが「父親達の星条旗」「硫黄島からの手紙」で作品賞、監督賞にのぼり日本と関わる話題が多かったが結果は期待はずれに終わった。唯一渡辺謙がカトリーヌドヌーブをエスコートし映画五十年の歴史をひもとく紹介者になったことは特筆すべきことである。女優助演には歌も踊りも始めての黒人がオーデションに合格し、受賞というシンデレラストーリーになったが迫力に満ちた演技には受賞も頷ける。作品賞と監督賞は六回も賞を逃していたマーチンスコセシが「デパーテッド」で念願の受賞を果たした。スコセシは何度もサンキューを連発し喜びを表したが私には複雑な思いが残った。彼が七十六年ロバートデニーロ、ジョデイフォスターを世に送り出した「タクシードライバー」はベトナム戦争後のアメリカ社会の混迷を鮮烈に切り取ってカンヌグランプリを獲得した。今回は香港映画「無間闘争」のリメイク版で松坂大輔が所属するレッドソックスの本拠地ボストンのギャングと警察との抗争を緊迫感溢れる娯楽作品に仕上げたものだった。それは見事な手練れの技術で最後まで観客を飽きさせない職人技であったが、アカデミー賞は超絶技巧だけで社会と孤立しては巨大なメデイアとしての影響力を自ら失うことになる。たまたま環境問題を扱った元副大統領ゴア氏が出演した「不都合な真実」がドキュメンタリー賞を受賞したが単なるお祭りだけにはしてほしくない。その中で今回一番注目したのはフオレストウィチィカ氏の主演男優賞受賞だった。過去の黒人受賞者はシドニーポワチエ、デンゼルワシントンだがウィチィカはその両者と比べても異色である。その彼がテキサスの片田舎からハリウッドを目指し「夢は見続ける限りいつか叶えられる。この栄誉は祖先に感謝し来世迄持ってゆく」と誇らかに語ったことだった。
2007.02.28



遅い初詣

 暮れの三十日から正月にかけて「ゆく年くる年」を見た以外、自らに苦行を課すように机にしがみついて過ごした。何十年振りに受験勉強を思い出し、過ぎし日の青春がほろ苦く蘇った。そんなわけでやっと正月末日に遅い初詣に出かけることが出来た。ここの所詰めた作業をしてきたので頭も身体も柔らかくほぐしたかった。幸いこの日は三月の陽気とかで暖かく風も心地よかった。行った先はお茶の水の湯島の聖堂である。この一帯は都心なのに脊の高い樹々に覆われて木洩れ日が懐かしい。犬公方として江戸町民から嫌われた五代将軍綱吉が儒教振興の為に林羅山家から廟殿を移して聖堂とした。今台湾から送られた孔子の銅像が建っているが昔からこの小さな一郭が好きだった。孔子は中国の長い戦乱の時代を十五年に及ぶ放浪を続けながら論語を編み出してゆくのだが、今日これ程広く日本に影響を与えた書物はないだろう。言ってみれば達人の処世術だが学ぶことは多い。
  女為君子儒。無為小人儒
  (見識のある君子になれ、自分のことしか考えない小人にはなるな)
 小学校を出た後独学で植物を研究した牧野富太郎は四十九歳で東大に招かれた。退職する迄肩書は講師のままだったが生涯に一千種の新種を発見した。この人は君子の鑑である。孔子を祭った大成殿は全体が黒塗りで覆われ喧噪も此処までは届かず、画架を立てて絵を描いている人の他は静寂があるばかりだった。聖堂を塀沿いに歩いてゆくと東大に行く本郷通りに出る。正面に神田明神の大鳥居が見え屋台がひしめく参道をゆくと此処にも好きな場所がある。銭形平次の碑が建っているのだ。捨てがたいのは親分だけでなく子分の八五郎の碑まであることだ。こんなところが人情に厚くて涙が出る。作者野村胡堂は東大の法科を出ているにも関わらず生涯に渉って法律に頼らず社会の偽善に目を向け怒りを込めて投げ銭を打ち続け悪代官、悪大名を懲らして町民の喝采を浴びた。この頃の政治家の中には庶民の人情では理解出来ない厚顔無恥が紳士面をして新聞にテレビに大手を振って歩いている。我が国の大臣には議員会館を只で使っていながらこともあろうに四千万円もの「事務所費」を計上して事務手続きに従っているからと平気な顔をしている。ちなみに同じ議員会館を使っている或る衆議院議員の事務所費は五十万円そこそこであった。この差を見れば何の説明もいらない。こうゆう正直な人が大臣になれない世の中は悪世というほかない。銭形平次のお出ましを願わなくては庶民の望む世の中はいくら待ってもやって来ない。
2007.02.15



侘び助

  今年も我が家に侘び助が咲いた。緑の艶やかな葉に囲まれて口をすぼめたような白い花がスッキリと立っている。一輪手折って備前の壺に挿した。少し首を傾げて抜き衣紋の首の細いいい女を思い出す。京都等持院の庫裡から庭を隔てて茶室が見える。その前に古い侘び助があるのだ。若い時その光景を長いこと眺めて時を過ごした。昔、国立駅の北口には見事な赤松の林があった。その林で春秋二回植木市があった。そこで等持院を思い出し侘び助の苗木を買った。もう二十年も前のことである。いい女とは武原はんのことだ。昔恋い焦がれた男を慕ってはんさんは地唄舞の「雪」を舞った。残り火に灯をともす余情を降りしきる雪の中に埋めてはんさんは立ち尽くした。女の情感がしみじみと雪に濡れた。しかし今侘び助を見て私がしきりに思うことは日本の片隅でまっとうに暮らしている人々が待ち望んでいるもの、それがいつ来るのだろうか、ということ。そのことである。侘び助は今日も咲いている。
2007.01.20



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