今年もあと一日となった。去年からずっと部屋中に積み重なった書籍を片付けたいと始めていたがどれも買った時の思い出がついてくる。昔のことが胸によみがえる。思わずほほえみが湧いてくるだけではない、苦がい記憶の方が立ちのぼってくるのは挫折に唇を噛む時が多いためではないか。そんな時、心にガツンとくる場面に出会った。
ノーベル医学賞を受けたiPS細胞の山中慎弥京大教授が記者に語った言葉である。
「私は栄誉を受けたがまだ一人の患者も救えてはいない。受賞は過去のことであり早く患者を助ける研究に戻りたい」
仕事に献身する実に謙虚な姿である。この言葉ひとつで人間への信頼を取り戻す感動の一刻となった。
それから程なくして宮城県陸前高田に小さな朗報が伝えられた。津波のために流された七万本に及ぶ松原が瓦礫に埋め尽くされた中から十糎程の黒松の芽が伸びているのを発見したのだ。一本だけ残って日本中が見守っていた松が枯れてしまい、市はその芯を抜いてモニュメントにしようとしていた。その最中に新しい生命の誕生は復興に努力している東北の人にとってこれ以上の励みはない。
来年へのまたとない希望となりますように。
2012.12.30
秋に降る雨はしっとりとして、庭を眺めながら雨音を聞いていると生きている実感が湧いてくる。今年も藤袴を花瓶に活けた。部屋に芳香が満ちてくる。空気の波動を感じる。身体の五感が感応する。雨が池に波紋をつくる。侘助の蕾にかかる雨が滴となってしたたり落ちる。季節は足早に冬の到来を告げている。満開となった金木犀の剪定枝をまとめるのに三日かかった。鋸を使い鉈を振り下ろし鋏で切る作業、紐で束ねる作業、葉を袋に詰める作業。それぞれにたっぷり汗を流した。やっと片付けて庭の隅に積み上げておいたら雨がやってきたのだ。
天気になっていよいよ切枝を道端に移動した時、その下から雨蛙が現れた。雨で湿った土の中に僅かばかり身体を埋めていた。そこは人の出入りがあるので蛙を手で拾うと南側の梅の樹の側に穴を掘って放した。蛙はジットして動かなかった。これから冬を越す為の穴蔵を探していたのだろうが切枝の下なら安全と思ったに違いない。
今、地球は人間と言わず生命あるものに対して生き延びる瀬戸際に立っている年でもある。この庭には猫も時々忍び込んでくる。蛙はその危険を乗り越えて生き延びて欲しい。考えてみれば今年は蛙で年が明けた。九ヶ月近い青年座演劇ワークショップに耐えて二月いずみホールで水上勉作「ブンナよ、木からおりてこい」に参加した。ブンナは殿様蛙の子供である。雨蛙ではないが生き物が平和に暮らせる場所を探して冒険する物語である。ブンナが劇中で訴える。
「運てものは切り開くものなんだ、そしたらあたらしい天地へ行ける」
昨年は東北大震災があった。政治も混迷し景気もまだまだ上向かない。だが私達は此処で生きている。この場所から生き抜いて希望を見いだそう。
2012.11.18
平成二十四年十月二十六日、久し振りに新宿に用があり出かけた。我が家の金木犀も昨年より十一日遅く十月十四日に開花し、いつもながらの香りに暫くの間は玄関の扉を開けるのが楽しみであった。その前には彼岸花が十四株も咲いて近来の喜びを味わったばかりであった。気候は昔と大きな変動があった。この原因は全て人類がもたらした無原則な開発にあることを警告しておかなければならない。
ともあれ十月とは思えない陽気に上着を脱いでシャツ一枚で新宿御苑に立ち寄った。新宿は懐かしくいつもほろ苦い味がする青春放浪の町であった。御苑と言えば昨日赤坂で天皇主催の園遊会があり、松本薫が振り袖姿で招かれていた。ロンドン五輪では試合直前の姿が何度も放映され独り言を言っては気合いを入れている顔から勝負にかける人間の清々しさが伝わってきた。髪も美容院でセットされた松本を見ていると福見知子と中村美里の姿も思い出す。彼女等は共に日本柔道の伝統を背負って戦った盟友である。柔道はもはや日本古来の武道とは明らかに異質である。これが国際化の代償とも言えるが福見、中村の敗戦を思う時、子供の時黒帯をめざしていた時代が無性に懐かしくなる。福見は最も金メタルを確実視されたが準決勝で敗退、三位決定戦でも力を発揮できずに破れてしまった。中村もまさかの初戦敗退であった。彼女等の稽古風景は涙ぐましいほど過酷を極めた。園遊会とは言わないが全ての戦っているアスリート達を称える宴が日本の何処かで催されることを期待したい。私達は彼等からどれ程の勇気を貰ってこられたか。新宿御苑でそんなことを考えた。
広大な御苑の片隅に十月桜が小さな花を咲かせていた。梅がヒッソリと咲いているのは二月の風景だが、この桜は四月の桜と違ってそれぞれの梢に一粒ずつ咲きそろう控えめな桜である。その密やかさが限りなく美しい。日本の秋を彩る又ひとつの点景である。
2012.10.27
井上靖原作の映画「わが母の記」が評判なので見に行った。原田真人が自ら脚本を書き監督もした。原田の作品は「金融腐食列島」「突入せよ、あさま山荘事件」を見ている。いずれも社会的事件の解決に立ち向かってゆく男達を描いている。その中でも「クライマーズハイ」に心撲たれた。日航ジャンボ機が五百四十人の乗客と共に群馬県御巣鷹山に墜落した。その惨劇と救助と原因を地方新聞という小さな組織で如何に真実の報道を読者に届けるか、記者達の苦闘の姿を伝えて感動的であった。そのイメージが刷り込まれたままこの映画を見たので正しく伝えられないかも知れない。役所広司が立派すぎた。井上靖の持つ作家としての陰翳が出ていない。名声を得た作家が家族と心通わせる場面を積み重ねて老いてゆく母を見つめる記録として微笑ましいが「孔子」を書いた井上ではなく「通夜の客」の井上を見たいのだ。名門のホテルでの家族会、軽井沢での避暑、世田谷の緑溢れる邸宅、それぞれが仕事に打ち込んでいる家族の風景は誰が見ても心和む場面だが私だけの井上とは隔たりがあった。とても若かった頃毎朝新聞の届くのが待ち遠しかった事がある。「氷壁」が連載され生沢朗が描く美那子が楽しみであった。井上の書く主人公は皆没頭する仕事を持っている。そのひたむきな姿は胸に秘めている女性への憧れであり、遂げられない思いへの裏返しであった。「風林火山」はその代表である。勿論「天平の甍」や「本覚坊遺文」もあるが遂げられない夢を追いかける男の陰翳こそが井上作品の真髄であり、その原風景が養母かのと過ごした伊豆湯ヶ島の日々にあると考えている。例えば「利休の死」の中で利休が秀吉について語る場面がある。「秀吉の目は美しいとか、静かなものには本質的に無縁な目であった。絶対に孤独ということを知らない目であった」井上はいつも生死を見極めて覚悟を持つ男達の屹立した姿を書き続けてきた。役所の背中に滅びの美学が少しでも漂っていたら秀逸であったろう。
2012.06.21
「父帰る」「おふくろ」は江守徹のアトリエ初演出の舞台である。五十年前江守もこのアトリエの舞台で初めて俳優のスタートを切った。そして五十年後、舞台に立ち続けた江守の演劇への思いがしみじみと伝わる公演となった。スタッフも役者達も江守の思いにキッチリと応えた。劇の進行に寸分の弛みもなかった。アトリエの空間に役者と観客が融け合いひとつの祝祭を奏でた。東京の片隅で生き続ける小さな小屋が積み重ねた演劇の営みが微力ではあっても、この濁世に浄化の一滴を滴らせた。
まず演目の選択が心憎い。江守は一年前に文学座のアトリエ研究会のメンバーから演出を依嘱された。その間に東北大震災があった。乞われた初演目となれば江守の長い役者としてのキャリアからして世上に膾炙したあらゆる作品が浮かんだに違いない。その中から選ばれた二作品は江守の批評精神を余すところなく示している。世事の乱れは国の破れである。そのことをまず家族という切り口から人間の原点を見つめ直そうとした。
江守は幕開きを何度も考え抜いたに違いない。蜷川幸雄演出なら大掛かりな装置で目を引かせるだろうが、アトリエの何よりも役者の汗の染みついた舞台へ一瞬にして観客を釘付けにする方法はないだろうか。そして思いついたのだ。「父帰る」ではもう特別のローカル線でしか聞くことの出来ない蒸気機関車を使った。機関車がゆっくりと走ってきて停止した時の蒸気をひと際高く吹き上げて幕が開くのだ。実際には幕はないが芝居へと観客を惹き付ける絶妙な効果であった。「おふくろ」の時も同じ手法だが、こちらは柱時計が時を知らせる振動音であった。
「父帰る」は母が必死で支える家族の元へ落魄した父が舞い戻る一瞬の情景を菊池寛が切り取った名作である。江守は父を頑なに拒み続けた長兄が、肩を落として出て行った父を追って弟と共に家を飛び出すクライマックスへと、一気に芝居を盛り上げ終始抑制を効かせて一編を仕上げた。長い間の俳優としての修練が底光りのする感動に結びつけた。
「おふくろ」は江守の面目躍如の一品である。それは峰子に新人を抜擢したことである。幕開きから峰子は炬燵に居眠りしたまま動かない。この子は一体何時起きるのだろうと観客は固唾を呑んで芝居を観ている。遂に兄に足で蹴っ飛ばされて起こされる。観客は峰子がどんな役者で現れるのか想像する。現れたのは秋山友佳であった。江守が掴みだした峰子である。後半、母親に「取っ組み合ってごらん」とけしかけられて見せる兄妹喧嘩が実に巧みで暖かい。失われてしまった家族の原点を江守はこの場面に凝縮した。おそらく何十日となく稽古をしたに違いない。江守はジット黙ったままOKを出さない。二人はやるしかない。他の役者もそうやって稽古を重ねた。そのことがひしひしと伝わってきた。
スタッフは技を殺して技を光らせた。全ては役者のセリフの一言、一言を唯一の手掛かりとして観客に提示した。観ている者は純金の無垢を手にするように舞台に引き込まれていった。終盤、母の希望も空しく夢破れて都落ちしてゆこうとする息子が無邪気に妹と争っている姿に思わず母は娘の頬を激しく殴ぐってしまう。やり場のない鬱屈を母は峰子にぶつけたが、それでも思い直して母は足を地につけて将来を築いてゆこうとする息子について行く決心をする。小市民の一家族が現実にぶつかりながら、それでも健気に生きてゆこうとする姿に、東北大震災をまのあたりにした観客の今日の祈りが重なった。実に清々しいクライマックスであった。全ての出演者が芝居の醍醐味を作り上げ、スタッフは芸魂を込めて舞台を支えた。その先頭に江守がいる。
2012.04.20
三月三十一日は東京で二十八、五米の強風が吹き荒れた。渋谷を歩く若い女性が風に背中を向けて通り過ぎる。青森ではみぞれが舞い映像は寒々とした町を撮した。電車も一時停まり全国的に荒れ模様の天気となった。東京管区気象台の職員が二人、今日も靖国神社へ出かけてテレビカメラに囲まれ職員はあっさりと開花宣言をした。気象台では五、六輪以上の咲き振りを以て「開花」と定めている。こんな時でも自然は動いている。やはり開花日が四月になることはなかった。
寒さに縮こまって暮らしていると春が待ち遠しい。その象徴が桜だ。もう少し経つと大学通りの桜並木はそれは見事な花行列で、幾つになっても胸騒ぎがするものだ。一途に咲き乱れてそして惜しげもなく散ってゆく風情に、何故かそそられるのは不思議な感情だ。心の奥深くに潜んでいる一種狂気とも言える渇望がどんな人間にもあって、そのシグナルに満開の桜が呼応するのかも知れない。突風がガラス窓を叩いて過ぎた。
そう言えば三月二十八日の夜明けに初めてウグイスの声を聞いた。布団のなかで耳を澄ませているとすずやかな音色が響いた。花蜜を啄む様子がありありと浮かんだ。我が家の梅があの時満開だったのだ。普段はツグミが他の鳥を寄せ付けないが早起きをしてやって来たのだ。時計を見るとまだ五時前だった。寒さもこれでようやく北へ去ってゆくのだろう。ガウンを羽織ってそっと雨戸を開けると逃げてしまった。一瞬梅の香りがした。
予兆はその前にもあった。三月二十一日のテレビで周南市が映った。刈り取られた田や河川敷でナベヅルが餌を啄んでいた。越冬地としては鹿児島県出水市が有名だが、この町に七羽が飛来して冬を過ごしていたという。西日を受けて景色は寒々としていたが鶴はこの日で北へ帰るのだそうだ。災難のあった日本だが忘れないでまたきっと帰って来てほしい。
2012.03.31
年が明けていずみホールの精巧な舞台模型が稽古場に持ち込まれた。舞台監督の川上さんがその模型を示しながら劇の進行手順をテキパキと説明してゆく。照明の鷲崎さんも音楽専用のいずみホールを如何に演劇的に工夫するか、本番が楽しみである。音響の坂口さんも備品倉庫から器材を持ち出しては音の創出に取り組んでいる。時折フランス映画を思わせるアコーデオンの音色が漏れ出して懐かしい気分にさせられる。根来さんの衣装も出来上がった。フクロウの親子が楽しみである。
昨年の夏から始まった水上勉作、青年座「ブンナよ、木からおりてこい」ワークショップは厳寒の冬を迎えていよいよ追い込みにかかった。ここまでよくたどり着いたな、と思わせるほど曲折があった。流感が蔓延している今でもマスクをかけて二月五日の本番に向けて全員の志気は上がっている。国分寺市にやっと演劇の本格的な公演がいずみホールの主催事業として実現した。文化の町として看板を掲げていても演劇はなかなか根付かなかった。音楽のように直截に人々の胸に届くというわけにはゆかない。音響や照明や装置との一体的な協働がなければ、たとへ名作といえども感動を観客に届けることは出来ない。そうした構築が出来ない為に国分寺の演劇というと朗読劇しかなかった。台本を読むという表現も大変な作業だが、演劇は更に多くの技術者が関わらないと幕を開けられない。その感動の違いをこのブンナを観て味わって頂きたい。今回、青年座はよくぞ国分寺市の呼びかけに応じてくれた、と幾重にも謝辞を述べておきたい。何故なら創造の現場というものは女性の出産にも似て大半が苦しみと忍耐の連続に過ぎないからである。試みてはやり直し、又苦痛に耐えて試みる作業は誰にも覗かれたくないということが本音のところである。その作業の工程を青年座は快く引き受けてくれた。
今、ワークショップの一同は創造の愉悦を観客と分かち合う為に長い道のりを青年座と共に取り組んで来た。なかでも演出の磯村さんは大変である。市民を劇のなかに組み込んで水上ワールドのブンナを実現しなければならない。市民が青年座の舞台に一緒に出られた、と思うだけでなく観客の市民から共感の拍手をホールに響かせることが出来なければブンナは完結しない。この半年間、みんなは青年座と共に努力した。苦労のあとはそれぞれの心の裡にある。胸を張って舞台に立とう。
2012.01.31
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