こくぶんじブログ 〜内田博司〜 本文へジャンプ
池内淳子

 衛星放送の番組を見ていて思いがけなく「男はつらいよ」を見つけた。このシリーズは全部で四十八作も作られ日本中をロケ地にして正に国民映画となり監督の山田洋次は文化勲章を受賞した。テレビ全盛で映画が斜陽になっても「寅さん」の正月封切りだけは映画館に足を運んだものだ。今回は八作目の「寅次郎恋歌」でゲスト女優は池内淳子だった。 この作品は四十八作の中でもベストスリーに入る作品である。昭和四十六年当時池内は花嫁女優候補ナンバーワンとなり雑誌のグラビヤや広告で毎日見掛けたものだ。その池内が子供を抱えてひとり喫茶店を切り盛りする健気なお母さん役として登場する。やがて寅さんの一目惚れとなるわけだが、思い込みと一生懸命さで相手の窮地を救ういつものパターンと違って本作は重くそして深い余韻を用意した。
 池内の喫茶店経営に関わるトラブルを耳にはさんだ寅さんが「よし、俺が助けてやる」と思っても路上で稼ぐ稼業では 到底追いつけもしない金額に頭を抱える始末であった。そこからが寅さんの真骨頂となる。好きな人を助けることが出来ないなら、たとえどんなに恋い焦がれていようとも潔く野末の風に身をさらして流れてゆくお定まりの寅さん。今回はその別れがことのほか身につまされて胸が何度も突かれた。
 それは前半の場面にあった。妹さくらの夫、博の母親がみまかり独り高梁市で暮らす博の父親(志村喬)と寅さんが「人間の幸福」について問答をする。父親はどんな境遇であろうとも家族全員が食卓を囲んで食事する暮らしこそ人間の幸福の姿である、と寅さんに諭す。神妙に聞いていた寅さんは了見を入れ替えてまっとうに暮らそうと柴又へ帰ってきた。けれど寅さんと出会った池内は逆に寅さんの自由な生き方に「私もそんな風に旅をして暮らしたい」と羨ましがられてしまう。折角、好きな人と安住して生きたいと思っても寅さんは再び故郷を後にしなければならない。根無し草にしか分からない哀しみを抱いて今日も寅さんは旅に出る。生きることの切なさがいつまでも胸に残る一編である。
2013.12.11



佐藤真海

 佐藤真海さんは九月二十三日、久し振りに母校の宮城県気仙沼市立小泉小学校を訪れた。小さな後輩達は目を輝かせて真海さんと一緒に鬼ごっこをしたりして楽しんだ。二十歳で右膝下の足を病気で失っても苦しさや哀しみを乗り越えてロンドンのパラリンピックに出場するまでのことも話した。
 子供達は大きくなったら、きっとこの時の佐藤さんと遊んだ時間を懐かしく思い出すでしょう。だが佐藤さんの果たした本当の功績を子供達は果たして知ってくれるでしょうか。2020年オリンピック開催の都市選定会議で、委員達が最後の意志決定に佐藤さんの僅か四分間のスピーチがなかったら、東京は選ばれなかったと思います。
 IOC総会委員達の東京に関する質問の大半は、会場のことや交通アクセスではなく福島原発事故による放射能の影響でありました。そんな悲惨な事故の傍らで果たして若者達の祭典はふさわしいか。世界中がそのことを心配してくれていたのです。なんと優しい心持ちの持ち主でありましょうか。
 その時、佐藤さん自身も津波で家を失い再起も覚束ない時に、世界中の人から励ましをもらい、又スポーツを通して多くのアスリート達が被災地にやってきて悲しみにくれる被災住民を勇気づけたこと、自分もスポーツを通して元気づけられたことを正直に訴えたのです。委員の多くは佐藤さんの話に納得し「日本へ行ってオリンピックを開催することは被災者と一緒になって祭典を楽しみ勇気を与えることが出来る」ことを確信したのです。東京オリンピックはそんな意義深い大会として開催する責任が日本に課されたと考えます。佐藤さんが大事な日本の道筋を示してくれました。
2013.09.28



草刈民代

 昨年、評判になった映画を今頃やっとレンタルで見ることが出来た。「終の信託」である。高齢化社会になって安楽死が実際に事件となりそれを題材としている。周防正行監督の意図は明確である。死の瀬戸際で苦しんでいる患者本人の意志をどう扱うかについて正面から取り組んでいる。命に関することだから法律による追求は厳格でいい。従って検事の追求が厳しいことは分かるが、死を看取った医師に対して法の見立てだけで殺人罪を適用しようとするのは理屈だろうが情として忍びないものがある。勿論医師も人間だから無原則に性善説をたてることは出来ない。金儲けのために健康な女性の子宮を何十人も摘出した医師も医院の看板を掲げていた。
 しかし、この映画に登場する医師は医療的経験も人間としても充分なキャリアとして設定されている。恋愛事件については意見の分かれるところだが私は理解する側である。その上でこの医師を責める検事は正しいのか。次々と医師の独断的性行をとらえて医師を窮地に追い込んでゆく大沢たかをも迫真的だが、女医を演じた草刈民代は患者の苦痛に寄り添って、かつ人間の尊厳をも保ち医師の良心を貫く自律的な女医を繊細に演じた。
 その女医が検事の「自発呼吸停止に至る行為をしたのは貴女ですね」と問い詰められて遂に行為を認め、その瞬間に逮捕状が執行され拘置所に収監されてしまう。判決は執行猶予付き有罪となってしまうのだが、この現実は果たして正しいのか、と周防監督は問いかけている。この判決で医師は良心に従うよりも保身のために延々と維持装置の作動を止めずに法外な医療費が国と家族の負担になり続ける弊害が生まれる一方、負担を逃れる為に早く装置の停止を切願して拘置所行きが家族にかかる可能性も生まれてくる。法のあり方、家族のあり方をも深く考えさせられる映画である。
2013.09.08



藤圭子

 平成二十五年八月二十二日、朝日新聞の夕刊は一面も社会面もイチローの日米通算四千本安打達成と高校野球決勝、群馬代表前橋育英の二年生投手高橋光成君が宮崎の延岡学園戦で一点差を守り切って優勝した記事で埋まった。別頁の片隅に藤圭子の死が載っていた。
 西新宿六丁目の路上に朝七時頃仰向けに倒れていた。十三階のベランダに片方の青いサンダルが落ちていた。イチローも高校野球も彼女には慰楽とはならなかったようだ。眼の強く美しい女性だった。いつもひっそりとして華やかさとは無縁の世界に住んでいた。
 五木寛之は彼女の歌を「怨歌」と言った。彼女の歌には芸能の昔、村々を訪ねては唄を歌い一食にありついた門付けの哀しみと切なさに満ちていた。
 過去はどんなに辛くとも夢は夜ひらく
 石坂まさをの作詞である。そういえば今日、この三月に死んだ石坂の偲ぶ会が開かれる筈だ。北海道を流浪した浪曲師の父と三味線弾きの母と共に藤も旅を道ずれに育った。そんな彼女を石坂が拾い上げ十八の時「新宿の女」でデビュー、翌年「圭子の夢は夜開く」が爆発的にヒットした。日本が高度経済成長を遂げる前夜の話である。
 ニューヨークで生んだ娘の宇多田ヒカルは母親を凌ぐシンガーとなり、今では娘の事務所の取締役となり何不自由のない生活が保証されていた。藤にとって名声も金も心を埋めるものではなかった。自分を育ててくれた恩師の偲ぶ会のひな壇に一身を捧げて恩返しをしたのであろう。もうそんな律儀な身の処し方などこの日本では忘れ去られて久しい。まだ六十二歳の若さである。また一人、日本から美しい女がいなくなった。
2013.08.24



夏八木勲

 ,平成25年のお盆は狂熱の夏として記憶されるだろう。連日、四万十市や甲府市が40度を超える気温を記録した。東京だって38度になり人間の体温を超えるのだから日本人が平穏に暮らした昔とは大違いだ。暑さを凌ぐのに閉口しているときに夏八木勲はすっくと背筋を伸ばしてへこたれる様子は微塵も見せずに、大谷直子と熱烈なラブシーンを演じてみせた。
 弱った心が奮い立つほど艶っぽさを見せてうれしくなった。
こんな生き方もあるのか。改めて夏八木勲の生き方に敬意と感謝を申し上げたい。と同時に、この映画を完成させた園子温氏にも感謝を申し上げたい。題名は「希望の国」。 ところが画面は東北の津波と原発事故によって廃墟と化した無人の住居と田畑と工場が延々と映し出されてゆく。地域の人達が安全を求めて無人となった街に夏八木は精神を病んだ妻と家業である牛を飼って暮らしている。放射能にやられた牛は商品とならない。それでも牛は生きているので夏八木は元の取れない餌を買っては食べさせている。傾いた家や操業の停まった工場に雪が降り積もる。その中を放浪の止まない妻が迷いでる。夏八木は必死に軽トラを運転して廃墟の街に妻を捜し求める。妻は工場跡の空地で積もった雪を掻き分けながら炭坑節を踊っていた。夏八木も後について踊り出した。日が暮れてやっと夏八木は妻を介抱しながら家路に就いた。これが東北の復興にはまだ手の届かない一部の現実である。そんな夏八木にも遂に放射線量が高い為行政から退去命令が出る。
 家郷を捨ててゆくところなど何処にもない。
夏八木は猟銃を構えると残さず牛を殺した。そして残る二発で妻と自分を撃った。
 庭先で妻が丹精したパンジーが風に揺れている。ガンに冒されながら雄々しく日本の男を演じた夏八木勲は今年五月十一日になくなっていた。
 まるで生きて私達を叱っているように睨みつけられた。
2013.08.12



東北支援

 オクラホマ出身の八十三歳のジョープライスが平成二十五年三月、東北の被災地を妻の悦子さんとともに訪れた。一面の景色がいまだ荒れ地のまま放置されている姿に何か手助けをしたいと立ち上がった。それが変わっている。ジョーは江戸の画家若冲のコレクターである。その作品で展覧会を開いたら東北の十七万人もの人が足を運んだ。
 驚異的な数字である。涙を流す人もいたという。何故これ程動員できたのであろう。若冲は京都錦小路にある八百屋の長男である。絵が好きで一時狩野派に学んだが規格一点張りの教育に飽き足らず独学で道を究めた。江戸の文人画と円山応挙の写生に影響を受けたがひたすら自分の技を磨いた。京都西福寺に納めた「群鶏図」は色彩も鮮やかで鶏があたかも意志を持っている人間に似ている。そこが米国超細密画の髪の毛一本も描き分けるアンドリューワイエスとも異なる思惟的な作風が観る者を惹き付ける。
 ジョーは家業のパイプライン建設で機械工学を学んだが絵は全くの素人だった。ニューヨークの古美術店で偶然若冲とも知らず精密な「葡萄図」に魅せられ一目で買ってしまった。その後に蒐集した六百点もの若冲ワールドを仙台、盛岡、福島の美術館を巡回したら多くの被災者も来てくれた。一介の米人コレクターの心意気に被災地の人々も奮い立った。なんと心温まる人間の絆ではないか。生きていて良かった。田舎ではもうお盆が始まっている。亡くなられた方々への供養と、今なを不自由な避難生活を送っている十五万の方々の平安を祈って今日も生きよう。
2013.08.05



山法師

 平成二十五年の七月は第二週に入ると東京ですら連日三十四度を超える炎暑の夏となった。甲府、館林に至っては三十九度を超える日々が続いた。早く温暖化対策を地球規模で実施しないと人間が平穏に暮らせる自然はもう取り戻せなくなる。そんな時に山法師の話など笑止と言われかねない。ところが私にとっては驚くべき事だった。植木が好きだった父親を引き取ろうと造園師に頼んで石と庭木を植えて貰った。その時に勧めて貰ったのがこの木だった。人生はうまくゆかぬもので、父は引き取る前に他界してしまった。
 私の落胆は大きかった。それに合わせるように山法師は一度も花を咲かせることはなかった。そのくせ毎年の成長は早く剪定には人一倍手間が掛かった。その為に花が咲かないのか、と思ったりもしたのだが、眺めが良くないので毎年汗をかいて剪定してきた。今年の三月、東北大震災の復興に願いを込めて「鎮魂」を出版した。その疲労で精も根も尽き果てもぬけの殻のような生活を送った。
 暑さで息苦しくなった昨今ようやく庭を眺める余裕が出てきたある日、フト天を仰いだ時葉陰の下に白い蝶が舞うように山法師の花を見つけた。近寄ると七輪も咲いていた。父が呼び寄せたのか、実に二十年振りの出来事だった。もう散ってしまったが、この開花を「機縁」と呼ぼう。父が迎えにきたのだ。私は笑って毎日陽差しをものともせず座り続けて庭を眺めている。,
2013.07.15



鎮魂

 出版の話があってから劇団青年座とのワークショップについては国分寺市が主催する事業なので市の文化事業普及の宣伝としても、その二百日の体験を書くことは意義あることと思いました。更に国分寺から日本へメッセージを発せられないか考え続けました。
 そんな時に昨年九月十一日の新聞に陸前高田市長の話が載っていました。東北大震災の復興のシンボルとして、注目されていた岩手県陸前高田の七万本の松原が津波に流された中でたった一本生き残った黒松が枯れてしまった。その松を惜しむ地元市民や全国の声に応えて市長がモニュメントとして復活させる工事に着手したとの記事でした。
 大震災の報道は世界中に流され、今でも三十万を超える人達が避難していることに日本人なら誰も心を痛め声援を送りたいことと思います。そんな被災した人々になんとか寄り添って応援できる作品を書いてみたいと思いました。 そして出来上がったのが「鎮魂」です。
 国分寺市も延べ百六十人を超す職員が各地の被災地に飛んでゴミ処理や被災家屋の調査、解体、運搬果ては選挙の投票事務や会場設営、文化財の保存管理等の救援に従事しました。東北の復興は日本の元気を取り戻し世界中から寄せられた援護に感謝する日本人の悲願です。「緞帳は揚がった」を併載し「鎮魂」というタイトルで三月一日より全国の書店及び紀伊國屋書店国分寺支店にて発売いたします。国分寺に暮らす全ての市民と共に東北大震災で被災した人々に熱く声援を送ります。
 元気を取り戻せ、日本
2013.02.19



緞帳は揚がった

 国分寺市内の文化に関心がある人々に読んで頂けたら、と始めた「内田さんのブログ」でしたが思わぬ所で反響があった。勿論、行政や各種文化団体に支えられてこその「文化振興市民会議」でありますが(株)文芸社からブログを出版してみないか、とのお誘いがあったのは昨年の九月でした。ブログを書き出してからかなりの分量になっているので一冊に纏める事は可能だが私は躊躇した。小さな町に住んで文化に関わることをあれこれ書いてきましたが、そのことが果たして広い地域の人々に共感を得ることが出来るのか自信がなかった。出版部の担当者に一ヶ月待って欲しいと伝えた。
 その頃、新聞で二十四歳の東大生が新しい算数の計算式を編み出したことを知った。それを試してみて素晴らしいと思った。やはりブログでは駄目だと思った。そう思ったら気分が楽になったが約束の日まで大分日数がありすぐ断るのも軽々しいと思った。
 そう思っている内に頭に浮かんだことがあった。
一昨年、市の文化のまちづくり課が主催した演劇ワークショップがあり、それに参加したことがあった。このことはブログにも書いてきたが、毎回挫けそうな日々があり同時に公演だけは見届けたいと燃えた二百日でもありました。長い間地域の芝居づくりに携わってきましたが、芝居は音楽や踊りのように直接感性に響くジャンルと違って、どうしても言葉を駆使しなければ観客に感動を伝えられない上に舞台美術や音楽や音響、照明、衣裳も伴うので地域では実現が大変困難なジャンルなのです。その困難な芝居を青年座のバックアップで実際にこの国分寺市で公演することが出来たのは正に文化的な事件でありましてこの二百日間の苦闘と歓喜は記録として残しておく必要があると思いました。
 演出の磯村純氏や舞台監督の川上祥爾さん、美術、衣裳、小道具の根来美咲さん、照明の鷲崎淳一郎さん、音響の野口野花さん、美術助手の鎌田絵里奈さん、そして制作の長尾さんと青年座の全ての人達に感謝と共感の思いが湧き上がってきます。ことに磯村さんには微細に渉って質問をいたしまして演出術の総体に及ぶデテイルまで懇切に教えて頂きました。この人達の芝居に賭ける意気込みが私を圧倒しました。創造への献身に打ちのめされました。この熱い人達の生き様はきっと今の世の中の疲弊した気分を吹き飛ばしてくれるに違いない。しかも市が関わっての事業であるなら併せて国分寺を広く世間に知らせる為に天平十三年に国家鎮護、病気平癒を願って建立された国分寺のことなど町のたたづまいを知らせることも大岡昇平の「武蔵野夫人」以来有意義なことではないか。
 そして出来上がったのが今年の一月で、この「緞帳は揚がった」であります。三月一日全国の書店及び紀伊國屋書店国分寺支店から「鎮魂」の書名で発売されます。青年座の公演を主催した国分寺市と文化振興市民会議のメンバーと二百日を戦った市民に厚く感謝申し上げます。
2013.02.09



高見盛

 平成二十五年の大相撲初場所は日馬富士の全勝で終わった。先場所初めての横綱場所で九勝に終わり非難を浴びたが、その汚名をシッカリと果たした。一方では人気がありながら幕下転落が確実となって高見盛は引退を発表した。アマ横綱にもなった逸材だが勝負に生きる人生には思わず粛然と身を正すような厳しさがある。その厳しさが潔さとなって多くのフアンを惹き付けるのだが、稽古を積んだ力士がぶつかり合う土俵には苛烈さ故に幾多の華も生んできた。高見盛もその一人だが飾らない真直な人柄が何よりも人間的な魅力となって人気を呼んできた。小結まで登りつめたのに膝の十字靱帯の怪我に襲われ、その恐怖を振り払うために奇妙なパフオーマンスが編み出された。そこに人々は切なさを感じ我が身に引き替えて涙ぐみ大きな声援となったのであろう。
 一途に生きようとする人間にはどうしても人々は心が寄り添ってゆく。それが人の世の常ならば人生は生きる甲斐があるではないか。この場所八連敗して来場所は幕下に転落しても相撲を取り続ける元大関の雅山が九日目にやっと白星を掴んで場内は割れんばかりの声援が飛んだ。その拍手に思わず花道で涙ぐむ雅山の姿にも観客は惜しみない愛情をそそいだ。これが日本古式の国民が親しむ相撲の良さであろう。いつまでも守り続けて欲しいものである。
2013.02.03



東京家族

  一月十九日に一般封切する「東京家族」の特別試写会に招待された。小学館発行の雑誌「サライ」を買ったら応募券がついていた。場所は築地松竹本社の試写室だった。昭和に青春を送った世代では映画が唯一の娯楽だったから人より先に見られる試写会には特別なうれしさがあった。その気分を味合わせてくれた「サライ」に感謝したい。しかも山田洋次監督が小津安二郎に捧げる映画として作ったのだから、それを松竹本社で見られるなんて粋な計らいをしてくれたものだ。それだけでも胸にジンとくる。
 見終わって感慨ひとしをであった。「東京物語」は十回近く見ている。尾道にいる老夫婦が東京の子供達に会いに行く冒頭と、ラストの突然妻を失って呆然と海を見ている夫の笠智衆に窓の外から隣の主婦の高橋豊子が声をかける。この高橋こそが日本人そのものとして小津映画には存在していた。山田映画にはもはや高橋はいない。そこに山田洋次の告発がある。
 小津安二郎は二十歳で関東大震災に遭い、三十四歳では一等兵として中国に出兵している。そして戦後昭和二十八年「東京物語」を作った。この映画は夢を託した子供達が親の期待に応えられず社会で苦闘している姿に立ちすくみ妻も失って故郷へ帰る話だが、世界の映画史に記録を残した。どんな国にもある家族の普遍性を捉えているからである。
 山田洋次も小津に敬意を表して平成の家族を描こうとした。最中に東北大震災に遭い製作を一年延期した。実際に被災地を見て歩き焦点を将来の行く末を担う次男坊にした。冒頭から頼りない次男が上京した父母を迎えに行ってはぐれる場面から進行する。その次男坊がシッカリ者の娘さんと縁が出来て父母を安心させ、新しく船出する海上の場面でラストにしている。「寅さんシリーズ」や「幸福の黄色いハンカチ」を作った山田の心温まる映画である。 痛烈に感じることは小津の作品から山田の作品と時代は大きく変わっているのに、人々の抱える真実は一向に豊かにも幸せにもなっていない日本の現実である。このままではいけない。
2013.01.10



            2005-2015 国分寺市文化振興市民会議 All rights reserved